2008.03.02

沈黙の時間

ドイツの山間の教会では、受難週(イースターまでの一週間)の間、教会の鐘を鳴らさないという。主イエスの受難を思い、静かな時を過ごす。

留学中、近くの教会では、鐘を止めることはしなかったが、受難週の間昼間の1時間を「沈黙の時間」として過ごそうということがあった。静かに、自室で聖書をひもといて黙想するのだ。

教会でも、今年は3月16日から23日のイースターまでの一週間、祈祷会をする。でも、それぞれの家庭で、沈黙の時間を合わせて持つのもいいかもしれない。自分で決めた30分、あるいは1時間、聖書を読んで、思いを巡らす。

私の尊敬する牧師は、聖書を読むときに、音読することを進めている。黙読するよりも、音読すると聖書の響きがよくわかるというのだ。自分の部屋で音読して、黙想する。教会の祈祷会と会わせて、今年は自分の沈黙の時間を持ってみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.01.26

十戒を心に刻む

十戒と言えば、映画を思い浮かべる方も多いでしょう。

聖書で言えば、出エジプト記20章、そして、申命記にも記されている言葉です。

「十の戒め」と書くせいでしょうか。これを「守らなければいけないもの」と考えてしまうことが多いと思うのです。そのようにとらえると、十戒は「裁きの言葉」にしか成り得ません。

十戒はもとの言葉で言えば、「10の言葉」。そして、それは、神様が「こうあるように」と私たちに下さった言葉なのです。

確かに、その一つ一つを完全に守ろうとすれば、そこには完全には守り得ない人間の姿が浮き彫りにされます。だからこそ、私たちは、神様が、そのために私たちに所に御子、主イエス・キリストをお遣わしになったことを思います。主キリストが来て下さったからこそ、私たちは、この十戒-十の言葉を守ることの出来る者に変えられるのです。

時々、「旧約聖書を重んじるのは、ユダヤ教でしょ。キリスト教ではそういうことをしない」と言われる方もあります。これは誤解。十戒は、使徒信条、主の祈りと共に、「三要文」として、古くからキリスト教会では重んじてきた文章です。

宗教改革の時代から、改革者らの手によっていくつかの信仰問答書が著されましたが、そのどれもが三要文をきちんと取り上げています。特に注目すべきは、十戒を扱うときに、その一つ一つについて、「この言葉によって神様は何をお求めになっているか」という問を繰り返していることです。

私の通う教会では、礼拝式の最初に、十戒を唱えます。十の言葉を心に刻みつつ、礼拝に向かう心を整え、神様に向かって心を開いていくのです。十戒はまさに、恵の言葉として、私たちの心に刻むべき言葉なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.31

新しい年の祝福を

今年は、いろいろなことがあって、なかなか御言葉をアップすることが出来ませんでした。

期待して見に来て下さった方・・・、すみません。

でも、少しずつでも、記事を載せていきたいと思います。

来年は、今の教会に来て5年目になります。節目の年になるかなぁ。

新しい年も、皆様の上に主の祝福が豊かでありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.10.06

豊かな希望

また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカによる福音書 / 13章 20-21節)

最近、自家製酵母のパンに凝っています。ヨーグルトやリンゴを使って発酵エキスを作り、酵母を起こして焼いてみました。イーストを使うよりも、味わいの深いパンができあがりました。
聖書では、「パン種」というと、2通りのたとえが示されます。一つは神の国、もう一つは悪いもの。どちらも、少しのものでも、入り込むと全体を大きくしてしまうと言うたとえで語られます。

しかし、最近、自家製酵母のパンを焼きながら思うのです。もちろん、イエス様の時代に、私たちが使っているイーストはなかったはずなのですが、自家製酵母は、中の酵母菌が一種類ではなく、自然界にある様々な酵母の混ざりもの。純粋なものではないのです。その様々な混じりものが、深い味わいを出しすのです。

時として、神様の恵を、私たちは純粋なもの、ピュアなものと感じていることがないでしょうか。いやいや、なかなかどうして。自家製酵母同様、神様の恵は実に多種多様。私たち一人一人に会わせて、また、一つ一つの共同体、それぞれにふさわしく注がれているのです。

少しのパン種がパン全体を大きく膨らますように、神様が与えて下さる恵も、よく用いれば、私たちの愛の業を大きくすることが出来ます。私は、そのためにも、神の国が来るように待ち望みながら、神様が私たちに与えて下さった、神の国のパン種を、大切にしたいと思います。
どんなに、つらいこと、悲しいことがあっても、喜びが増すように。どんな試練にあっても、豊かな希望を得るように。

明日の主の日の祝福を祈って。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.08.13

平和の挨拶

その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。(マタイによる福音書 / 10章 12節 )

韓国の教会を訪ねる旅をしたことがある。韓国人留学生であった先輩が、通訳をかってでてくれて、楽しい、また、実りの多い旅だった。その先輩が、たずねる教会で必ずすることがあった。会堂にはいると、まず席の一つに座り、祈るのである。この地に立てられた主の教会に、祝福があるようにと祈っていた。ドイツでも、韓国からの留学生と友達になったが、彼のお別れの時の挨拶はこうだった。「神様の祝福があるように。」

主の祝福があるように。主の平安があるように。

韓国の友人に特有のことではない。キリスト者の挨拶なんだと改めて思った。いつでも、どこでも、主の祝福、主の平安を私たちは祈ることが出来る。いや、祈るだけではない。祈り求めることが出来る。それは、そこに神様の祝福がちゃんとある、神様の平和があるという確信に基づいているからである。

平和の挨拶を送ることは、主イエスが命じられていることなのだ。だから、信仰者は、ただの願望や、希望によって祝福や平和を祈るのではない。私たちが確信して祈るときに、主の祝福と平和が実現するからである。

8月にはいると、毎年のように戦争の話がいろいろなところで話題になる。あの敗戦の日から62年にもなっている。しかし、決して、今の時代が「平和なとき」とは言い切れない。未だに無差別の殺戮があり、無意味に人の血が流され、世の中は悲しみに満ちている。

しかし、私たちは、「だから神様なんかいない」とは言わない。それば絶望を求める言葉だから。私たちキリスト者は、人に会う毎に、人を訪ねる毎に、主の祝福と平安を祈る。それは、私たちに希望をもたらすから。

今日、この御言葉に触れたあなたに、主の平和がありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.08.06

神の国と神の義を求めなさい

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイによる福音書 / 6章 33節)

先日、少し残念な話を聞いた。

Aさんは、若い頃に洗礼を受けた。その方に洗礼を授けた牧師は、「わかってから洗礼を受けるのではない。洗礼を受けてからわかるものだ。」と言って促し、洗礼を授けたそうである。しかし、受洗のあとも、取り立てて何の訓練も、Aさんにはなかった。

やがて、故郷を離れ、東京に出てきたときに、ある教会に転会した。その教会を牧していたX牧師の話に感銘を受けたそうである。X牧師はちょっと変わったところがあった。牧師であるのに、キリストの復活は理解しがたいと言ったという。Aさんも、キリストの復活について疑問があり、その点で、X牧師の言葉に、共鳴するところがあったようである。

X牧師が他の教会に転任され、次に、Y牧師が来た。Y牧師は、聖書に忠実に説教をした。これは、X牧師とはまったく違うタイプの教師であったという。しかし、問題が起きた。教会員の多くが、Y牧師の説教に感銘を受けないと言いだし、教会は分裂。AさんもY牧師の語る言葉に耳を傾けることが出来ず、結局教会から足が遠のいてしまった。

長く教会生活から離れた後、年老いたこともあって、もう一度教会へと言う思いから、自宅近くの教会を訪ねた。しかし、主日礼拝で使徒信条を告白するたびに、キリストの復活を信じていないこと、素直に使徒信条の文書を告白することが出来ないことに苦しみを覚えたという。Aさんのことを心配するキリスト者の友人も、「あなたの頑なさを捨てなさい。」とさとし励ましたのだが、遂に、教会生活をすることを断念し、教会へは行かない決心をしたとの手紙を牧師に書いた。

特別な話のようだが、この類の悲劇は結構耳にする。なぜ、悲劇が起きるのか。信仰の要が初めからはずれているのである。

Aさんの言葉には、「理解する」という意味の言葉はあっても「信じる」という意味の言葉は少ない。洗礼を受けたときも、洗礼を授けた牧師の人柄に惹かれただけであって、主イエスには出会っていなかった。さらに、X牧師の話に感銘を受けたが、Aさんの魂は揺さぶられなかった。感銘を受けるのは、人間的な心の次元の問題である。X牧師の話は、神の言葉ではなく、人の言葉としてAさんの心感銘を与えたにすぎない。ここに、説教者の責任もあるのだろう。

Aさんが、魂に揺さぶりをかけられたのは、最後の教会だろう。教会員が心から主イエスを信じて、信仰告白をするただ中にいて、主の復活を信じることが出来ず、したがって、使徒信条を告白するたびに苦しくなるのは、むしろ当然のことである。なぜなら、主イエスが、その頑なな扉を、拳で叩くからである。「早く、この扉を開けなさい。開けて、私の復活を受け入れなさい」と言われているからである。

しかし、Aさんは別の道を選んだ。もちろん、教会の牧師も、教会員も、また友人も、どれだけAさんの救いのことを祈っていたかわからない。ことある毎に、Aさんに声をかけてきたかわからない。もちろん、今でも、みんなが祈っている。一日でも早く、気が付くように。人が自分を変えてくれるのではなく、人をして語られた神の言葉によって、自分が変わることを。変わるために立ち上がることを。立ち返って、主イエスは私のために死に、私のために復活されたことを信じることを。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この言葉をAさんはどのように聞くのだろうか。神の国と神の義を求めるならば、私たち人間が、その御言葉の前にどんなにあらがっても勝ち目のないことは明白に見えてくる。だからこそ、全てのことを治めておられる主に我が身を安心して委ねることが出来るのではないか。主イエスの復活も、理解することではなく、信じることが求められていることに気が付くのではないか。いや、今からでも遅くはない。気が付いて欲しいのです。気が付いて、回れ右をして、教会に帰ってきて欲しいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.07.18

聖霊の助けにより

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 (コリントの信徒への手紙一 / 12章 3節)

多くの教会では、礼拝の中で、三要文(十戒、主の祈り、使徒信条)の全てかそのうちのどれかを用いている。
十戒。往年の映画スター、チャールトン・ヘストン主演の映画として、記憶にとどめている人も多いと思うが、聖書では出エジプト記20章に登場する。モーセによってエジプトから導き出された民の民、イスラエルに対して、神が与えた十の言葉、戒めのこと。
主の祈り。これは、新約聖書マタイによる福音書とルカによる福音書の中に記されている。主イエスが、弟子たちに「このように祈りなさい」と示した祈りのお手本。教会では、礼拝の他、いろいろな集会においても一緒にいるのことが多い。
こう見てくると、十戒、主の祈りは、神が私たち人間に与えた言葉である。が、信仰告白は、と考えると、これは、人間が作ったものともいえる。しかし、教会がどういう信仰理解にたっているかを明確に示したもので、単なる教会の声明文のようなものではない。

私が出席している教会では、礼拝の中で使徒信条を告白している。そう、教会の信仰告白としてみんなでその文言を口にするのだ。最初は、書かれている紙を見て言うことが多かったが、次第に暗記し、見なくてもスラスラ言えるようになった。そのときに、はっとさせられたのが、今日の御言葉である。

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

ドイツに滞在していた友人が、現地で子供に幼児洗礼を授けて貰った。そのときに、誓いの言葉をこう言ったという。

「誓います。神の助けによって。」

「神の助けによって。」そう、聖霊の助けを求めつつ、この子に洗礼が授けられることをのぞみ、その子が教会の子供として育ち、そのための養育のつとめをなしていくことを誓うのである。これは洗礼の時だけに限らない。結婚式の誓いの時も、教会役員の任職式の時も、同じ誓いの言葉が述べられた。

聖霊は、神から送られた、私たちの助けてである。聖書には、この聖霊は、私たちの苦しみ、悲しみを最も深いところで知り、私たちに必要なものを与え、助けると記している。この力強い味方を、私たちは、神に祈り求めることが許されているのである。

聖霊の働きは、私たちに見える形で、あるいは見えない形で現れ、働いている。それを「気休めだ」という人がいるなら、言わせておけばいい。信仰者の笑顔、そして、悲しんでいる人の傍らに立ち続ける力、空しいと思われるような努力をも続ける忍耐を与えて下さるのは、まさに聖霊の助けがあるからだ。その一つ一つを信仰者は数えることが出来る。これこそが、主イエスを信じる信仰の力と、胸を張って言うことが出来るから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.07.10

明日の苦労を背負い込まない

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書 / 6章 34節)
聖書を読んでいると、その聖句に触れると、必ず立ち止まってしまう箇所が、いくつかある。マタイによる福音書、第6章25節以下も、そうだろう。

先日、20人ほどのご婦人たちとこの箇所を読んだ。おそらく、そこに集まった方たち、また、今、この記事を読んで下さっているあなたも、苦労がなかった一日など無いに違いない。誰でも、大なり小なり、その日の苦労があり、試練があり、心配事がある。それら一つ一つを、気に病めば、ますます不安で心が重くなる。そこで、主イエスは、「思い悩むな」と言われたのだろうか。

改めて、6章の最初から読み直してみた。5節からは、主の祈りが書かれている。そして、何度も何度も、記されているのは、神の国と神の義を求めること。神のご支配のあるところ、私たちの必要なものは全て主によって与えられるという。
主の祈りの中に、

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 」(11)

がある。明日の糧ではない、あさっての糧も、でもない。今日の糧である。イスラエルの民が、エジプトを出たあと、荒れ野で食べ物が無くなったときも、主なる神は、【今日】食べるマナを与え、【今日】食べるウズラを降らせた。

あのときも、【食べるものが再びなくなるかも知れない】と不安にかられた何人かの人は、明日のマナを集め、明日のウズラを捕ったが、何にもならなかった。
私たちは、あすの糧ばかりが、明日の労苦、あさっての不安まで抱え込んではいないだろうか。あすの労苦を抱え込んでしまって、今日、主が助けを与えて下さっている恵を、見失ってはないなだろうか。

あすの労苦まで抱え込む必要はないのだ。今日、主によって助けられて歩む、そのことを感謝し、希望を持とう。明日には、あすの助けがまた与えられるのだから。そして、私たちがつなぐ希望は、きっと闇のように見える試練に、光と勝利をもたらすのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.07.02

神の光

闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書 / 9章 1節

この預言者の言葉は、マタイによる福音書第4章に引用されている。主イエスが、荒れ野から帰られたあと、ガリラヤで伝道を始められたことを伝える記事である。

主イエスが私たちの所に来られたのは、この預言が成就するためであったと、福音書は伝えている。
さて、この時に、主イエスは、言われた。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
「天の国」とは、「神の国」のことである。もとの言葉から言えば「神の支配」と考えてもいい。
イザヤはそれを「光」という。
闇の中、罪の闇の中にいた私たちに、光がさす。それは、いきなり私たちを照らすのではなく、最初は気づかないくらいに、かすかに光っていた。が、どんどんと光を増し、あっという間に、私たちに近づいてきた。
暗闇の中にいた私たちは、闇の目が慣れていたので、初めは、その光を光として認めることが出来なかった。しかし、見よ、これこそ、神の国が放つ光、神の義が放つ光。
光の中で、私たちの闇の部分は、明らかにされた。しかし、それは、神が闇の中から光の中に立ち返れとの御言葉となった。また、死の影にうずくまっていたものも、その光に照らされた。光を見たものは、闇から光へと目を移した。たとえ、死が私の目の前に迫っても、闇ではなく、光を見ることを知ったのである。それは、どのような苦しみの中でも、生きる希望を見いだす道しるべとなった。
光を受けた人々は、その光を携えて、さらに闇を照らすために派遣されていく。
あなたも、この光のもとに来て欲しい。あなたも、この光を携えて、世の中を照らすものとなって欲しい。
それが、主イエスが私たちに命じられたことなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.05

聖なる者

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。(コリントの信徒への手紙一 / 6章 11節 )

「私は、○○さんにつく。」
「私は、××さんに従う。」
そう人々が言って、バラバラになりかけていたコリントの教会に書かれた手紙、それが「コリントの信徒への手紙」です。痛烈な皮肉を込めた言葉で、しかし、教会が分裂してはならない、主なる神において一つになれと、手紙の著者は語ります。

この手紙を、第一章から丹念に読んでみると、一つの鍵の言葉が浮かんでくるように思えます。
「聖なるもの」
そう、手紙の著者は、何よりも、コリントの教会の人々を、
「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」(1:2)
と挨拶呼び、挨拶を送っているのです。

人は、生まれながらの罪人。しかし、今のあなたは違うだろう。あなた達は、キリスト・イエスによって聖なるものとされ、召されているのだ。その聖なるものの群れである教会が、どうして分裂して良いだろうか、と…。

今日の御言葉も同じことを繰り返し語っています。6章9-10節には、悪のリストが書かれています。手紙の著者は言うのです。「あなた方の中にはそのようなものもいた。しかし、今は違う。」と。

ここで、ギリシア語の聖書を見ると、
「しかし、あなた方は洗われたのだ、しかし、あなた方は聖なる者とされた、しかし、あなた方は義とされた、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって」
となっています。手紙の著者は、「しかし」を3回繰り返し、あなたは方洗われたのだ、あなた方は聖なる者とされたのだ、あなた方は義とされたのだと、念を押すように語るのです。

決して、傲慢な意味ではなく、現代に生きるキリスト者は、このことを忘れてはいないでしょうか。神に召され、その霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされているならば、もはや、私たちは罪を重ねることをしてはならないと思うのです。神の御心を慮るのならば、全ての人々の平和を願い、そのためには忍耐を持って悪と戦い、御言葉をのべつ耐えることこそ大切なのではないでしょうか。

明日の主の日、世界中の、全ての人々の上に、イエス様の祝福がありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«チト気分転換