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2007年7月

2007.07.18

聖霊の助けにより

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 (コリントの信徒への手紙一 / 12章 3節)

多くの教会では、礼拝の中で、三要文(十戒、主の祈り、使徒信条)の全てかそのうちのどれかを用いている。
十戒。往年の映画スター、チャールトン・ヘストン主演の映画として、記憶にとどめている人も多いと思うが、聖書では出エジプト記20章に登場する。モーセによってエジプトから導き出された民の民、イスラエルに対して、神が与えた十の言葉、戒めのこと。
主の祈り。これは、新約聖書マタイによる福音書とルカによる福音書の中に記されている。主イエスが、弟子たちに「このように祈りなさい」と示した祈りのお手本。教会では、礼拝の他、いろいろな集会においても一緒にいるのことが多い。
こう見てくると、十戒、主の祈りは、神が私たち人間に与えた言葉である。が、信仰告白は、と考えると、これは、人間が作ったものともいえる。しかし、教会がどういう信仰理解にたっているかを明確に示したもので、単なる教会の声明文のようなものではない。

私が出席している教会では、礼拝の中で使徒信条を告白している。そう、教会の信仰告白としてみんなでその文言を口にするのだ。最初は、書かれている紙を見て言うことが多かったが、次第に暗記し、見なくてもスラスラ言えるようになった。そのときに、はっとさせられたのが、今日の御言葉である。

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

ドイツに滞在していた友人が、現地で子供に幼児洗礼を授けて貰った。そのときに、誓いの言葉をこう言ったという。

「誓います。神の助けによって。」

「神の助けによって。」そう、聖霊の助けを求めつつ、この子に洗礼が授けられることをのぞみ、その子が教会の子供として育ち、そのための養育のつとめをなしていくことを誓うのである。これは洗礼の時だけに限らない。結婚式の誓いの時も、教会役員の任職式の時も、同じ誓いの言葉が述べられた。

聖霊は、神から送られた、私たちの助けてである。聖書には、この聖霊は、私たちの苦しみ、悲しみを最も深いところで知り、私たちに必要なものを与え、助けると記している。この力強い味方を、私たちは、神に祈り求めることが許されているのである。

聖霊の働きは、私たちに見える形で、あるいは見えない形で現れ、働いている。それを「気休めだ」という人がいるなら、言わせておけばいい。信仰者の笑顔、そして、悲しんでいる人の傍らに立ち続ける力、空しいと思われるような努力をも続ける忍耐を与えて下さるのは、まさに聖霊の助けがあるからだ。その一つ一つを信仰者は数えることが出来る。これこそが、主イエスを信じる信仰の力と、胸を張って言うことが出来るから。

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2007.07.10

明日の苦労を背負い込まない

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書 / 6章 34節)
聖書を読んでいると、その聖句に触れると、必ず立ち止まってしまう箇所が、いくつかある。マタイによる福音書、第6章25節以下も、そうだろう。

先日、20人ほどのご婦人たちとこの箇所を読んだ。おそらく、そこに集まった方たち、また、今、この記事を読んで下さっているあなたも、苦労がなかった一日など無いに違いない。誰でも、大なり小なり、その日の苦労があり、試練があり、心配事がある。それら一つ一つを、気に病めば、ますます不安で心が重くなる。そこで、主イエスは、「思い悩むな」と言われたのだろうか。

改めて、6章の最初から読み直してみた。5節からは、主の祈りが書かれている。そして、何度も何度も、記されているのは、神の国と神の義を求めること。神のご支配のあるところ、私たちの必要なものは全て主によって与えられるという。
主の祈りの中に、

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 」(11)

がある。明日の糧ではない、あさっての糧も、でもない。今日の糧である。イスラエルの民が、エジプトを出たあと、荒れ野で食べ物が無くなったときも、主なる神は、【今日】食べるマナを与え、【今日】食べるウズラを降らせた。

あのときも、【食べるものが再びなくなるかも知れない】と不安にかられた何人かの人は、明日のマナを集め、明日のウズラを捕ったが、何にもならなかった。
私たちは、あすの糧ばかりが、明日の労苦、あさっての不安まで抱え込んではいないだろうか。あすの労苦を抱え込んでしまって、今日、主が助けを与えて下さっている恵を、見失ってはないなだろうか。

あすの労苦まで抱え込む必要はないのだ。今日、主によって助けられて歩む、そのことを感謝し、希望を持とう。明日には、あすの助けがまた与えられるのだから。そして、私たちがつなぐ希望は、きっと闇のように見える試練に、光と勝利をもたらすのだから。

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2007.07.02

神の光

闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書 / 9章 1節

この預言者の言葉は、マタイによる福音書第4章に引用されている。主イエスが、荒れ野から帰られたあと、ガリラヤで伝道を始められたことを伝える記事である。

主イエスが私たちの所に来られたのは、この預言が成就するためであったと、福音書は伝えている。
さて、この時に、主イエスは、言われた。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
「天の国」とは、「神の国」のことである。もとの言葉から言えば「神の支配」と考えてもいい。
イザヤはそれを「光」という。
闇の中、罪の闇の中にいた私たちに、光がさす。それは、いきなり私たちを照らすのではなく、最初は気づかないくらいに、かすかに光っていた。が、どんどんと光を増し、あっという間に、私たちに近づいてきた。
暗闇の中にいた私たちは、闇の目が慣れていたので、初めは、その光を光として認めることが出来なかった。しかし、見よ、これこそ、神の国が放つ光、神の義が放つ光。
光の中で、私たちの闇の部分は、明らかにされた。しかし、それは、神が闇の中から光の中に立ち返れとの御言葉となった。また、死の影にうずくまっていたものも、その光に照らされた。光を見たものは、闇から光へと目を移した。たとえ、死が私の目の前に迫っても、闇ではなく、光を見ることを知ったのである。それは、どのような苦しみの中でも、生きる希望を見いだす道しるべとなった。
光を受けた人々は、その光を携えて、さらに闇を照らすために派遣されていく。
あなたも、この光のもとに来て欲しい。あなたも、この光を携えて、世の中を照らすものとなって欲しい。
それが、主イエスが私たちに命じられたことなのである。

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