何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイによる福音書 / 6章 33節)
先日、少し残念な話を聞いた。
Aさんは、若い頃に洗礼を受けた。その方に洗礼を授けた牧師は、「わかってから洗礼を受けるのではない。洗礼を受けてからわかるものだ。」と言って促し、洗礼を授けたそうである。しかし、受洗のあとも、取り立てて何の訓練も、Aさんにはなかった。
やがて、故郷を離れ、東京に出てきたときに、ある教会に転会した。その教会を牧していたX牧師の話に感銘を受けたそうである。X牧師はちょっと変わったところがあった。牧師であるのに、キリストの復活は理解しがたいと言ったという。Aさんも、キリストの復活について疑問があり、その点で、X牧師の言葉に、共鳴するところがあったようである。
X牧師が他の教会に転任され、次に、Y牧師が来た。Y牧師は、聖書に忠実に説教をした。これは、X牧師とはまったく違うタイプの教師であったという。しかし、問題が起きた。教会員の多くが、Y牧師の説教に感銘を受けないと言いだし、教会は分裂。AさんもY牧師の語る言葉に耳を傾けることが出来ず、結局教会から足が遠のいてしまった。
長く教会生活から離れた後、年老いたこともあって、もう一度教会へと言う思いから、自宅近くの教会を訪ねた。しかし、主日礼拝で使徒信条を告白するたびに、キリストの復活を信じていないこと、素直に使徒信条の文書を告白することが出来ないことに苦しみを覚えたという。Aさんのことを心配するキリスト者の友人も、「あなたの頑なさを捨てなさい。」とさとし励ましたのだが、遂に、教会生活をすることを断念し、教会へは行かない決心をしたとの手紙を牧師に書いた。
特別な話のようだが、この類の悲劇は結構耳にする。なぜ、悲劇が起きるのか。信仰の要が初めからはずれているのである。
Aさんの言葉には、「理解する」という意味の言葉はあっても「信じる」という意味の言葉は少ない。洗礼を受けたときも、洗礼を授けた牧師の人柄に惹かれただけであって、主イエスには出会っていなかった。さらに、X牧師の話に感銘を受けたが、Aさんの魂は揺さぶられなかった。感銘を受けるのは、人間的な心の次元の問題である。X牧師の話は、神の言葉ではなく、人の言葉としてAさんの心感銘を与えたにすぎない。ここに、説教者の責任もあるのだろう。
Aさんが、魂に揺さぶりをかけられたのは、最後の教会だろう。教会員が心から主イエスを信じて、信仰告白をするただ中にいて、主の復活を信じることが出来ず、したがって、使徒信条を告白するたびに苦しくなるのは、むしろ当然のことである。なぜなら、主イエスが、その頑なな扉を、拳で叩くからである。「早く、この扉を開けなさい。開けて、私の復活を受け入れなさい」と言われているからである。
しかし、Aさんは別の道を選んだ。もちろん、教会の牧師も、教会員も、また友人も、どれだけAさんの救いのことを祈っていたかわからない。ことある毎に、Aさんに声をかけてきたかわからない。もちろん、今でも、みんなが祈っている。一日でも早く、気が付くように。人が自分を変えてくれるのではなく、人をして語られた神の言葉によって、自分が変わることを。変わるために立ち上がることを。立ち返って、主イエスは私のために死に、私のために復活されたことを信じることを。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
この言葉をAさんはどのように聞くのだろうか。神の国と神の義を求めるならば、私たち人間が、その御言葉の前にどんなにあらがっても勝ち目のないことは明白に見えてくる。だからこそ、全てのことを治めておられる主に我が身を安心して委ねることが出来るのではないか。主イエスの復活も、理解することではなく、信じることが求められていることに気が付くのではないか。いや、今からでも遅くはない。気が付いて欲しいのです。気が付いて、回れ右をして、教会に帰ってきて欲しいのです。
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