ローマの信徒への手紙

2007.01.21

十字架の死に至るまでの従順

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマの信徒への手紙 / 5章 19節)

ローマの信徒への手紙は、神の義の人間の罪(不義)について語っています。
手紙の著者、パウロは、アダムの違犯によって、私たち人間は罪に定められたが、一人の人キリストの従順によって全ての人が救われたことを記しています。
このことをより深く考えるために、私たちはアダムのことを考えてみたいのです。というのは、アダムはなぜ罪を犯したのでしょうか。
神様が、天地創造をされて、最後に人間を作られたときに、作られたもの全てをご覧になって「良い」と言われました。何より、人間は、神様の形に似せて作られたのです。このことは、人間は、その最初から悪くはなかった。むしろ、神様の戒めを守ることのできるものとして作られたのです。主イエスが、律法の全てを、「唯一の神を愛すること、隣人を自分と同じように愛すること」の二つにおまとめになりましたが、そのことが出来る者として、私たちは作られたのです。
ですから、アダムとエバは、ヘビの唆しにあったときにも
「私は、神の言葉に従う。あなたの唆しには従わない。だから、あの木の実は食べない」と拒否することも可能だったはずです。しかし、彼らは、神の言葉に従わず、悪魔の言葉に従いました。
神様から頂いた自由を、自分の身勝手な思いのために使ったのです。これが罪です。

しかし、神様は、このような私たち人間を、本来の姿、神を愛し、人を愛する者に取り戻すために、主イエス・キリストを乙かをしになったのです。しかも、主イエスは、その救いの計画のために、十字架の死に至るまで神の言葉、神の御心に従順であられたのです。
「本当の意味で、人を愛することは難しい」と、よく言われます。確かに、「愛」は利己的で、身勝手な側面があります。しかし、この神様の御心、それに従われた主イエスにおいて現れた、私たちの救いを信じたとき、「愛」は身勝手な者ではなくなり、本当の意味で人を愛すること、神を愛することが可能になると思うのです。
この愛の中に、あなたも生き欲しいのです。

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2006.01.27

神の御心をわきまえる

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマの信徒への手紙 / 12章 2節)

私たちが日々生活していく中で、何が一番大切か。いろいろな答えが出てくると思います。しかし、おおかたの人は、悪いことをするよりも良いことをする、ということに賛成するでしょう。そこで、問題が生じます。良いこと、悪いことの判断はどうするのでしょうか。

ある人たちは言います。「愛する国を守るためには、自分の命を賭しても、敵と戦うべきだ。」
また、ある人は言います。「何があっても、人を殺めてはならない。たとえそれが敵であっても、許すことが必要だ。」
こんな事もあるでしょう。「嘘はいけない。でも、嘘をつくことで、人間関係がスムーズに行くこともある。人を慰めることもできる。嘘は方便。」
いやいや、こんな事をあげつらっても、きりがありません。要するに、善し悪しの価値基準は動くものなのです。

そこで、キリスト者は、いつも心にかけて問うことが求められるでしょう。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」そして、ここにも注意が必要です。「これこそ、神の御心だ」と行って、神の御心に反することを行う人たちもいるからです。

神の御心を知ることは難しいと思います。それだけに、自らを低くして、謙遜になって御言葉を聞き、祈る姿勢が大切なのではないでしょうか。

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2004.03.07

わたしたちに対する愛

kobito_aka.gif しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ローマの信徒への手紙 / 5章 8節

最近、気になることがあります。子供たちの見るテレビ番組であまりにも簡単に「死」という言葉が出てくるのです。「死ぬ」ということをたやすく口にするように思うのです。
今週のみ言葉の中にも「死」という言葉が出てきます。が、「キリストの死」は私たちが一般に言うところの「死」とは本質的に違うものです。キリストの死は私たちの罪の購いのためのものでした。神様は、私たちの罪の深さを真剣に問われました。唯一の義しいものとして、人間を真剣に裁かれたのです。神様に背を向けた私たちの罪は、情状酌量の余地などなかったのです。そのような私たち人間を救うために、神様はイエス様を十字架の死に定められたのでした。
それで終わりではなかったのです。主イエス様は復活されたのです。それによって、私たちも救われました。「キリストの死」は私たちの「命の救い」なのです。
「命救われたもの」が、なぜ、自分の命を粗末にするようなことをし、「死ぬ」という言葉を簡単に口にすることができるのでしょうか。
受難節(レント)のこの時期に、私たちは繰り返し問い、祈ることが求められていると思います。私たちの罪の深さ、救われた私たちの命の尊さと重さ、私たちの体は神様の宮であり、大切にしなければならないことを。

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2004.02.08

私たちはただで買い取られた

ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 ローマの信徒への手紙 / 3章 24節
kobito_midori.gif 「では、あなたが主イエス・キリストを十字架につけたと告白するのですね。」 よく覚えてはいなかったが、このような内容の台詞だったと思う。大学生のときに、三浦綾子氏の小説、「塩狩峠」の映画を見た。主人公の永野青年が洗礼を受けようとして牧師のところに来たとき、かの牧師は先の問いを彼に問うたのだった。もちろん、青年はそれは違うと答えた。イエス・キリストが十字架にかかったのは2000近くも過去の出来事。現代に生きる自分が、直接手をかけたわけではないと。

神様の前における人の罪。これは、何か悪いことをしでかしたことではない。神の存在を信じない、神から遠く離れたところにいる人間の姿そのものが罪なのである。信じ、信頼するものがないということは、思い煩い、疑心暗鬼の中に生きることになる。神を信頼しないものの生きたかは、自分の仲間、隣人をも憎む生活になっていく。

「愛」という言葉はたやすく「憎しみ」に変わるということを私たちはよく知っている。ただ、変わらないのは「神様の愛」だけなのである。

神は、また、罪をそのままにはしておかれない。正しく裁くお方なのである。それほどまでに、「正しさ」ということを真剣に追求される方なのである。だから、私たち人間が自分自身では負いきれないほどの罪を、一人五、主イエスを十字架にかけるということで救おうとされたのだ。

罪を償いうには、そのあがないのための支払いが必要である。主イエスは、私たちの代価のために支払われた。しかし、私たちはそれを支払うことも、支払いを要求されることもない。私たちは、ただで神様に買い取られたのである。

ぜひ、このことを心に留めて、ローマの信徒への手紙2章以下を丁寧に読んでいただきたい。(聖書が手元にない方は、日本聖書教会のHPより見ることができます)

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