ルカによる福音書

2007.10.06

豊かな希望

また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカによる福音書 / 13章 20-21節)

最近、自家製酵母のパンに凝っています。ヨーグルトやリンゴを使って発酵エキスを作り、酵母を起こして焼いてみました。イーストを使うよりも、味わいの深いパンができあがりました。
聖書では、「パン種」というと、2通りのたとえが示されます。一つは神の国、もう一つは悪いもの。どちらも、少しのものでも、入り込むと全体を大きくしてしまうと言うたとえで語られます。

しかし、最近、自家製酵母のパンを焼きながら思うのです。もちろん、イエス様の時代に、私たちが使っているイーストはなかったはずなのですが、自家製酵母は、中の酵母菌が一種類ではなく、自然界にある様々な酵母の混ざりもの。純粋なものではないのです。その様々な混じりものが、深い味わいを出しすのです。

時として、神様の恵を、私たちは純粋なもの、ピュアなものと感じていることがないでしょうか。いやいや、なかなかどうして。自家製酵母同様、神様の恵は実に多種多様。私たち一人一人に会わせて、また、一つ一つの共同体、それぞれにふさわしく注がれているのです。

少しのパン種がパン全体を大きく膨らますように、神様が与えて下さる恵も、よく用いれば、私たちの愛の業を大きくすることが出来ます。私は、そのためにも、神の国が来るように待ち望みながら、神様が私たちに与えて下さった、神の国のパン種を、大切にしたいと思います。
どんなに、つらいこと、悲しいことがあっても、喜びが増すように。どんな試練にあっても、豊かな希望を得るように。

明日の主の日の祝福を祈って。

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2006.12.16

祝福の挨拶

マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。(ルカによる福音書 / 1章 41節 )

天使ガブリエルから、御子を宿すというお告げを聞いたマリアは、同じく神の定めによって身ごもっている親類のエリサベトをたずねます。神様が人間を救おうとしてなさった大いなる計画。その計画に身を献げるように二人の女性は神様の定めを身に引き受けました。エリサベトは洗礼者ヨハネの母となり、マリアはイエスの母となったのです。
二人の胸の内にあったのは、子を宿した事への喜びよりも、神様の定めの中に入れられているという畏れだったかもしれません。
「献身」という言葉があります。文字通り身を献げるのですが、神様のお召しにしたがって生きるということです。いってしまえば簡単なことですが、実際はどうでしょうか。
伝道者になるために勉強をしている神学生が良くぶつかるのは、「これこそは神様のお召しだ」と思って献身、神学校に行くようになったのに、その召命がぐらつく時です。召命の思いは本当に神様からのお召しだったのが、単なる自分の思いこみであったのか。一人では確かめようがないのです。しかし、神様は人間を一人にはしておかれませんでした。マリアにエリサベトがいたように、エリサベトにマリアがいたように、互いに執り成しあうものを備えてくださっているのです。神学生にとっては同じ神学を学ぶ友かもしれません。神学校の教授かもしれません。所属する教会の牧師かもしれません。執り成しあう人がいれば、召命が本物の時はその危機を乗り越える助けを与えられますし、もし、その召命が自分の思いからであれば、(それは伝道者になることではないにしても)本当に神様が召されている道に進む勇気を与えてくれるでしょう。
神学生ばかりではありません。わたしたちの日々の生活がすなわち、献身の生活なのです。神様に献げた生活なのです。その重さは、一人で担うものではないのではないでしょうか。
ルカによる福音書は、マリアの受胎告知までは静寂の中で物語を語りました。よけいな呟きを退けるかのように、ガブリエルはザカリヤの口を閉じました。マリアは思慮深くガブリエルの言葉を引き受けました。しかし、この祝福の挨拶から、一気に賛美の声が響き始めます。エリサベトは御霊に満たされて神をたたえ挨拶します。マリアは高らかに神をたたえる歌を歌います。
続く物語は洗礼者ヨハネの誕生です。ここでザカリアの口は再び開き、神をたたえる言葉がほとばしります。そして、クリスマスの物語。天使たちの大合唱が羊飼いたちのいるのに響くのです。ルカによる福音書はそこで終わらないのです。天使たちの合唱は再び登場するのです。それは、受難を前にした主イエスのエルサレム入城の物語。この物語に於いて主を迎えるエルサレムの人たちの口に再びこの賛歌が備えられるのです。
響き渡る賛歌、そして祝福の挨拶。わたしたちはこの喜ばしい響きが、わたしたちの救いの先取りであることを悟らなくてはなりません。わたしたちの救いのために来られた主イエス。なぜ、神様がそのひとり子をお与えにならなければならなかったのか。そのことをしっかり心にとめることは、祝福の挨拶から始まった喜びの響きを、もっともっと響かせるものになるのではないでしょうか。

(2004年11月16日に公開した記事の再掲載です)

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2006.10.31

羊飼いの見つけた赤ちゃん

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカによる福音書 / 2章 12節) 

まだ、クリスマスには早いと考えるかもしれませんが、家庭集会の場で、ルカによる福音書第2章の記事を読みました。主の御使いが、羊の番をしている羊飼いたちのところに来て、主イエスの誕生を告げるところです。天使は言いました。

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

羊飼いたちは、その言葉に従って、主イエスがお生まれになった厩を見つけ、確かに、飼い葉桶の中に寝ている赤ちゃんを見つけ出したのです。
 しかし、思えば不思議な話です。天使の告げた言葉はこうでした。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

そして、羊飼いたちが見つけ出したのは、乳飲み子のイエス様でした。イエス様といえども、乳飲み子です。マリアが乳を与えなければ、飢えてしまうかもしれない。汚れたおむつを替えなければ、おしりがかぶれてしまうかもしれない。ちょっと強く揺さぶれば、簡単に死んでしまうかもしれない。そのような、小さな、弱い存在として、主イエスは、私たちのところに来られたのです。

私たちは、時としてこう考えます。
神様が全能の方ならば、なぜ、その力で、この世の悪を払い、私たちの不安をぬぐい、あらゆることをたちどころに解決してしまわれないのか。本当に、神様なんているんだろうか。

神様が本当にその強い力で、この世をぬぐわれたならば、私たちは自らの罪深さの故に、死ぬ他はないでしょう。しかし、神は、そのひとり子をこのような小さな弱い存在として、この世におつかわしになりました。主イエスは、その最初から私たちの中のどの人よりも小さく、どの人よりも弱い者として、この世に来られたのです。私たちをしたからしっかりと支えるために。ですから、主は私たちのどのような小さな悲しみも、どのような小さな不安も、とのような小さな苦しみも、悲しみも理解して下さるのです。
主イエスが共にいて下さるから、私たちは、どのような大きな困難にも耐えることができるようになりました。

このイエス様の降誕を待ち望み、お祝いするクリスマスが近づいています。

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2006.10.05

弟は死んでいたのに生き返った

だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカによる福音書 / 15章 32節)
幼いときに、両親の信仰によって、小児洗礼を受けた人たちがいます。この方たちは、成長した後、今度は自分の口で罪を告白し、信仰を言い表すことが求められます。信仰告白式を経て、成人会員として教会の一員となるのです。
しかし、残念なことに、どこの教会でも、小児洗礼を受けている子供たちが信仰告白にまで導かれるのは、なかなか大変なようです。
多くの場合、キリスト者の家庭の子供たちは、親の信仰、あるいは教会員の姿を見て、失望することがあるのです。信仰を持っているといいながら、なぜ裁き合うのか。なぜ、言いたいことを言って争い合うのか。彼らの多くは、大人の信仰者が偽善者に見えると言います。
また、ここ数年は、キリスト教徒であると自称しながら、戦争に邁進している政治家の姿が、テレビで放映されることがしばしばとなりました。全く、残念なことです。

しかし、同時に思うことがあります。偽善者だと言って、大人の信仰者が信じられないといって、どうしてあなた達は、教会から離れてしまうのでしょうか。聖書の言葉に耳を傾けることを止めてしまうのでしょうか。確かに、偽善の行動をとる人たちがいます。イエス・キリストの名を振りかざして、信仰とは全く異なった、自分よがり名行動を正当化しようとしている人たちもいるのは事実。
実は、私たち全ては、神の前から失われてしまった息子と同じなのです。

放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟に対して、父は祝宴を開きました。それに対して、兄は文句を言ったのです。この兄も、神の前から失われかけている息子です。父なる神は、私たち全てを回復するために、私のもとに立ち帰れと呼ばれているのです。

キリストの名を語りながら、偽善をする大人たちは確かにいます。でも、神様は、そういう大人たちを見て信じられなくなっている、あなた達に対して、「私は確かに生きている。あなたが私の元に返ってくるのを待っている。答えるのを待っている」と呼びかけているのです。私たちが生き返ることを待っているのです。

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2006.06.10

怒りで満ちる心

ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。(ルカによる福音書 / 6章 11節)

主イエスは、安息日に会堂で教えられていました。そこに、手の萎えた人がいました。同じ会堂の中にいた律法学者、ファリサイ派の人たちは、主イエスを訴える口実を探していたので、安息日の会堂で、主イエスが癒しを行われるかどうかを見張っていたのです。
彼らの心の内は、イエスというナザレ出身の男を訴えることしかありませんでした。手の萎えた人のことも、主の語られる教えも、受け入れる余地がなかったのです。
彼らの考えを抜かれた主イエスは、あえて手の萎えた人を人々の真ん中に立たせ、人々に問いました。

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(9)

安息日に許されていることは、当然、善を行うことであり、命を救うことです。善とは、神の御心を行うことであり、命を救うとは、神の御心のうちに生きることです。あらためて問われ、この当たり前の答を答えるものはありませんでした。それどころか、癒しを行われた主イエスに対して、彼らは怒り狂ったのです。
「怒り狂った」と訳されている言葉は、「怒りで満たされた」という意味です。しかも、この「怒り」は、神が怒られる時に用いる「怒り」とは別の言葉です。むしろ「無知」とも訳されている言葉です。
私達の罪の本質がここに明らかにされています。私達は、怒りで心を満たしてはなりません。むしろ、喜びで満たされるものです。そのためには、私達はこの無意味な怒りを拭い去る、捨て去る必要があるのです。
私達の心を満たしている無意味な怒りを、ご自身と共に十字架につけてしまわれたのです。この主を信じる時に、私達はもはや、無意味な怒りに心を満たされることはないのです。神様の喜びの中に生きることができるのではないでしょうか。

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2006.04.23

主は生きておられる

婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。(ルカによる福音書 / 24章 5節)

復活の主イエスの記事を聖書の中に読む時に、私達が同時に耳にするのは、空っぽの墓の話です。空っぽの墓、すなわちそれは、主イエス・キリストのお体がそこにはない、主イエスは復活されたことを意味します。と同時に、「死」から「復活の命」へと、私達の視点が変えられていくのです。
今年のイースターは4月16日でした。午後に教会の墓地を訪ね、墓前で礼拝を献げた教会も多いと思います。私事になりますが、この日、雨の中を教会員の方たちと墓前で礼拝をしました。その時に、あらためてと割れました。なぜ、主イエスの復活の祝いの日に墓を訪ね、礼拝をするのか。
いくつかのことが考えられます。
まず、主イエスの墓を、復活の日の朝に婦人たちが訪ねたと言うこと。彼女たちは、そこに於いて天使から主の復活を知らされ、復活の主イエスに出会いました。この聖書の記事になぞらえて、私達も復活の日に墓に於いて礼拝を献げ、主の復活と私達の救いのめぐみをあらためて神に感謝するのです。
墓前礼拝を「召天者記念」あるいは「逝去者記念」礼拝とする教会もあります。しかし、ここで私達は細心の注意が必要だと思うのです。墓前で行う礼拝は、すでに召された人を記念するための礼拝ではないのではないか。あくまで、復活の主をたたえる礼拝であることが重要なのではないか、ということです。では、そうなるとその墓に納めた方たち、あるいは遺族の心情というものは無視されるのでしょうか。決してそうではないと思います。
私達の神、私達の救い主である主イエスは、死んだ方の中にはおられません。復活され生きておられます。そして、この主イエスに対して、私達はすでに召されている私達の愛する家族、愛する人を安心して委ねているのではないでしょうか。
愛する人の写真を飾り、その想い出を語ることも良いでしょう。しかし、その時こそ、私達は忘れてはならないと思うのです。主イエスは復活された。死者の中に出はなく、生きおられる。しかも、そのお方は死の世界をも治められているということを。

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2005.11.05

神の喜び

言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカによる福音書 / 15章 10節)
 私たちが信仰を求める時に、神様の愛がいかに大きいか、いかに深いか、そして、私たちを救おうとされる神様の熱情がいかに熱いものかを、よく聞かされると思います。そのときに、私たちが考えることは、その反対側にある私たちの惨めな姿です。ルカによる福音書15章は、「失ったものを探し、取り戻す」と言うことが一つのテーマになっています。確かに、私たちはこのたとえの中で話されている、迷いでたひつじ、あるいはどこかに転がっていってしまったお金にたとえることが出来るかもしれません。どこかにすっ飛んでいってしまったものを、神様は他のことをほっておいても探し出され、ご自分のもとに取り戻そうとされるのだと言うことは、確かに、私たちにとっては恵みです。しかし、私たちは、ただ、そのことにとどまってしまうのではなく、もう一歩先に進んで、この御言葉を味わいたいと思うのです。
 迷いでたひつじを見つけた羊飼いはなんと言ったでしょうか。
『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』(6)
お金を見つけた人はなんと言ったでしょうか。
『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』(9)
そうです、「一緒に喜んでください」と言っているのです。ひつじを探した羊飼い、銀貨を探した人は誰でしょうか。神ご自身であるとすれば、今日の御言葉を自ずから分かるのではないでしょうか。
 神様は、十把一絡げの救いをなさる方ではありません。一人一人を捜し出し、ご自分のもとに取り戻そうとしているのです。一人の人が悔い改め、救われたその喜びは、その一人の人の喜びにとどまらないのです。神ご自身が喜んでくださる。そればかりか、神はそのことを「一緒に喜んでください。」と言われるのです。福音書記者は「神の天使たちの間に喜びがある」と記しました。これは天上の喜びです。私たち一人一人は、まさにこの天上の喜びへと招かれているのです。

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2005.10.12

神を神として

イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカによる福音書 / 4章 8節)

ルカによる福音書第4章の冒頭に納められている、主イエスが悪魔から試みを受けられる話は、よく知られています。教会学校でも子どもたちに語ることの多いテキストの一つでしょう。私たちは、この物語を読む時に、これを主イエスと悪魔との戦いとして読みます。同時に、主はこのことを通して私たちのあるべき姿のお手本を示されているようにも思うのです。
 ある時、この物語を取り上げている教会学校の教案を見て、「おやっ」と思ったことがありました。そこには、「イエス様は、一人、祈られるために人のいない寂しいところに出て行かれた。すると、悪魔がやってきてイエス様を試みられた。」と、書かれていたのです。が、聖書の記述は違うのです。聖書は、イエス様が洗礼を受けられて後、霊によって荒れ野の中を引き回されて、悪魔の試みを受けられた、としているのです。イエス様の祈りをじゃまするかのように悪魔があらわれたのではなく、悪魔に挑まれるようにして、主イエスは霊に導かれて荒れ野に行かれたというのです。
 荒れ野での悪魔の試みは、単にイエス様をたぶらかすような生易しいものではありませんでした。悪魔は言うのです。「神の子なら、…」おまえが神の子ならば、神から与えられた力があるはずだ。それを存分に使って人を救えばいい。これは、明らかに「主イエスが神であること」に対する挑戦でした。第2第3と、悪魔は聖書の御言葉を用いてまでも、イエスに挑みました。
 私たちが注目したいのは、主イエスがその悪魔の試みを退けながら、最も大切なことを私たちに示してくださっていると言うことです。

『人はパンだけで生きるものではない』
『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
『あなたの神である主を試してはならない』

主イエスがお答えになったこれらの言葉は、全て旧約聖書からの引用です。それはただ、引用されただけではありません。このように並べてみると、すぐに気がつくと思うのです。主イエスが示されていることはただ一つ。
私たちの生きる道は、神を神として崇めること。これ以外に命を得るところはない。
ということです。

 主イエスが、このように悪魔のお答えになったということは、私たちもまた、試みの対しては同じように答えればよいと言うことです。主を信じるものには、試みに対する仕方も、主イエスは私たちよりも先にそれを経験し、お手本をちゃんと示してくださっているのです。

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2005.06.25

本当の喜び

しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカによる福音書 / 10章 20節)
 kobito_aka.gif主イエスは、自分に付き従うものの中から72人を新たに選ばれて、町や村に派遣されました。彼らが、命じられたことは、どこかの家に入ったら平和を祈ること。病人をいやし、神の国が近づいたことを宣べ伝えること、でした。  ところが、派遣先から帰ってきた彼らは、息せき切って主イエスに報告したのです。
「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 (17節)
人間を支配して止まない悪霊たち。この悪い例たちにどれほど人々が苦しめられてきたか。おそらく、72人の誰もがそのことを痛みを持って心に刻んでいたのでしょう。ですから、それらの霊が主イエスの名前を言うだけで自分たちに屈服することは、驚きであり、また、自分たちにそのような力が授けられたことに対する感謝もあふれていたと思うのです。
 が、主イエスはここで、あえて彼らに言われたのでした。その力はあなた方自身のものではない。主イエスがお授けになったものである。だから、悪霊が従うからと言って、そのことを喜んではならないと。
「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
主イエスは、謙遜に生きることを教えられます。私たちが主イエスを信じることによって、何か超越的な力を与えられることを喜ぶのではなく、私たちの名が天に書き記されていること、すなわち、私たちが主のものであることを喜べと言われるのです。
主なる神を褒め称え、栄光を神に帰すること、ここに私たちの本当の喜びがあるのです。

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2005.06.19

必要なことはただ一つ

しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。(ルカによる福音書 / 10章 42節)
kobito_ao.gifマルタのマリアの姉妹の話です。教会にしばらく通った方ならば、すぐに思い浮かぶ話です。
 家に招き入れたイエスたちをもてなすために、マルタはせわしなく働きました。しかし、マリアはイエスの足もとで、話に聞き入っていたのです。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 (40節)
 ここで、マリアは大切なことを3つ忘れていました。一つは、イエスが指摘されたように、大切なことはただ一つ、主の言葉に耳を傾けることです。マルタは、あれこれと思い悩んで、心を乱してしまったのです。
 二つめは、隣人に対する嫉妬です。『私はせわしなく働いているのに、あのマリアは…。』という思いは、彼女を憎み、裁く思いです。
 三つめは、隣人の大切なものを取り上げてしまうことです。み言葉に耳を傾けているマリアから、み言葉を聞くことを止めさせようとする思いです。
 確かに、人々のための奉仕、マルタが心を込めてイエスをもてなそうとする思いは、大切なことであり美しいものです。しかし、要がはずれていたのです。
 わたしたちは人々のために働きます。そこでは、いつでも主の祝福があるように祈るのです。主の祝福がなければ、どんなに良い働きも、なきに等しいものとなるからです。わたしたちは、いつもみ言葉を聞き(礼拝)、そこで新しい命に生かされることを経験します。そこから世に送り出されて、この世の勤めに誠実に励むことが出来るのです。
 このことは、特に、日曜日にもなくてなはならない重要な仕事(医療など)に付かれている方に問うて欲しいのです。み言葉の飢え渇きに慣れてしまってはいませんか。大切なつとめをしているのだからと、自分の仕事と礼拝を天秤にかけてはいないでしょうか。
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41-42)

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2005.04.13

あなたがたに平和があるように

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ルカによる福音書 / 24章 36節)
 kobito_rosa.gifエマオへ行く途中、復活の主に出会った二人は、エルサレムへとって返したの弟子たちに事の次第を話しました。誰もが、疑いを持ってその話を聞いてるただ中に、主イエスは立たれたと福音書記者は記しています。
「あなたがたに平和があるように」
こう挨拶されたイエスを、弟子たちは亡霊かと思い恐れおののいたのです。心を騒がせ、うろたえたのです。素直に、復活の主を受けれることの出来ないものの姿。しかし、主はそのような弟子たち、そして、わたしたちに主は自らの手と足をお見せになり、聖書を解き明かされたのです。
 カトリック教会やルーテル教会に行くと、十字架にかかったイエス様の像があります。釘の刺さった手足からは血が流れ、槍で刺された脇腹かも血が流れ出ているように書かれているのです。主イエスが、弟子たちの前に現れた時は、その手足はどうだったのでしょうか。復活してあらわれるならば、その傷跡もきれいになっていたかもしれない。そうも思います。しかし、傷口はきれいだったとは思えないのです。生々しかったかもしれません。それを主ははっきりとわたしたちにお見せになったのではないでしょうか。ただ、釘が刺さった手、足としてではなく、何故、そのような傷口がそこにあるのかを、わたしたちに悟らせるために。
 弟子たちは、そのようなものを通して、しかし、恐れは消し去られ喜びに満たされていきました。
「あなたがたに平和があるように」
これは、挨拶の言葉です。同時に、主イエスはわたしたちに本当の平安をもたらすために、復活してわたしたちの真ん中に立たれるのです。

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2005.03.26

主イエスと共に

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。(ルカによる福音書 / 24章 15節)
 kobito_tsuri.gif主の復活のを読んでいると、そこにたくさんの「信じられずにいるもの」たちの姿を目にします。主が復活された。確かに、そう簡単に信じられない出来事です。主イエスは、主は、そのようなものたち一人一人の所を、本当に丁寧にたずねられました。
 今週のみ言葉は、エマオに向かう弟子たちに復活の主が顕れた記事です。この弟子たちは、絶望のどん底にいたに違いありません。あれこれと論じ合いながらも、エルサレムから離れてエマオに向かっていたのです。主イエスに付き従っていた時、彼らの心は燃えていたに違いありません。それが、十字架の死を目撃して、すっかり冷えてしまったのです。絶望している二人に、イエスはいきなりあらわれず、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」とあります。そして、主自らが御言葉を解き明かし、ご自身を示されたのでした。この物語の結末は、どうぞ、聖書を読んでください。本当に心が燃えるような記事です。
 ところで、わたしたちについても、このエマオに向かう旅人同様の経験をしているのだと思うのです。主イエスを信じられない方たち。いや、前は信じていたけれど、何かに躓いて信じられなくなってしまった方たち。実は、主自らが、ずっとあなた達と共に歩み、あなたの心と目を開く時を待っておられるのです。主は信じられないわたしたちと共に歩み、ご自身の方から見ずらかをお示しになります。イエス御自身が近づいて来られるのです。
 イースター、おめでとう。この言葉と共に、多くの方の心と目が開かれ、復活の主の恵みにあずかることができますように。

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2005.03.19

墓に納める

遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。(ルカによる福音書 / 23章 53節
 kobito_neru.gif主イエスは十字架にかかり、死なれました。そして、人々の手によって墓に納められたと記されています。死を完全に死なれたと言うことです。
 「死」は、わたしたちにとって怖いものの一つです。死んでしまったらどうなるのかを知っている人はいないからです。得体の知れない世界がそこにあるからからもしれません。その「死」を主イエスは死なれたのです。
 わたしたちが持っている信仰告白の中に「使徒信条」という文章があります。その中に「…十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に降り、3日目に死人のうちより甦り…」という文言があります。主イエスは死んで葬られ、黄泉にまで降られたと言うことです。ということは、わたしたちが「得体の知れない知らない世界」と思っている「死」は、すでに主によって知られていると言うことになります。主イエスを信じることによって、わたしたちは「死」を怖れることなく、今を生きることができるのです。
 最近は、残念なことに集団で自らの命を絶ってしまう方々のニュースをよく聞きます。一人ならば怖いが、何人か集まって一緒に死ねば怖くないのでしょうか。しかし、何故、自らの命を絶つのでしょう。今がいやになったからでしょうか。今の苦しみから逃れるために「死」を選ぶのでしょうか。
 主イエスが、わたしたちの罪を負って完全にしなれ、黄泉にまで降られたことは、「死を怖れなくていい」事にとどまらないのです。主はそこから復活されます。死人の中から甦られるのです。わたしたちも、その主とともに罪に死に、死んだも同然の中から新しい人へと復活するのです。主イエスの「死」はわたしたちが自ら「死」を選ぶのではなく「生」を選ぶためなのです。

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2005.03.07

この方は何も悪いことをしていない

我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。(ルカによる福音書 / 23章 41節 )
kobito_rosa.gif主イエスが十字架につけられた時、同時に二人の犯罪人が十字架にかかったと聖書に記されています。ルカによる福音書では、そのうちの一人はイエスを呪い、他の一人はそれをたしなめたと伝えています。
 自分も悪いことをした。そして、十字架という死刑に今処せられている。もう、全てが終わりだ。どうにでもなってしまえ…。イエスと共に十字架にかけられた人の心の内を思うと、自暴自棄になっていたとも考えられます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 (39節)その言葉の裏には、「どうせ、そんなことはできないだろう。 おまえも十字架につけられるんだ。死刑だ。何が神の子だ。何がメシアだ。」という言葉が聞こえてくるようです。
 わたしたちは、この記事を読むたびにはっとさせられます。果たして、主イエスを呪ったこのせりふは悪事を重ね、その報いのために死刑に処せられる犯罪人が語ったせりふでしょうか。いや、わたしたちも、その同じ呪いを口にすることはないでしょうか。「神様なんているんだろうか。いたら、わたしはこんなに苦しさを味わわなくていいのではないか。(神様なんかいるもんか)」「何故、戦争があるんだろう。何故、災害で人が多く死ぬんだろう。何故、神様は人間に悲しさを与えられるのか。(神様なんかいるもんか)」「神様を信じていたって、一体何が変わると言うんだ。信仰を持ったって、何も変わらないじゃないか。(神様には何もできないじゃないか。)」
 もう一人の犯罪人は、呪いを吐くものをたしなめて言いました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」福音書記者の意図はここにあります。「この方は何も悪いことをしていない。」何も悪いことをしていない方が、罪を犯した者として、しかも死刑に処せられている。わたしたちの罪の贖いは、このように、全く罪を犯さない者の血を要求するほどに重いものなのです。しかも、十字架-木の上に挙げられると言うことは、神からも見捨てられる、神の呪いを受けるものという意味があるのです。主イエスは、わたしたちの罪を負い、人間の呪いを負い、本来はわたしたちが受けるべき神様の呪いをも引き受けて十字架にかかられたのです。本来わたしたちが受ける当然の報いを、主が代わって担ってしまわれたのです。
 主のご受難の物語はまだ終わりではありません。十字架の死で終わるのではないのです。さらに先へと続くのです。救済の物語はさらに先へと進んでいくのです。

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2005.02.28

砕かれる存在

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。(ルカによる福音書 / 22章 61節)
kobito_bloon.gif 「熱血漢、ペトロ」彼のことをそう呼んでもいいかもしれません。主に招かれた時から、全身全霊を注いでイエスに付き従っていたペトロでした。ペトロの鶏事件についても、主イエスがあらかじめ預言された時、「そんなことは、決してない」と本当に心から否定したでしょう。だから、イエスが逮捕され、連行された時も後先のことを考えないでついて行ったのだと思うのです。
 ペトロは一つの経験をするのです。イエスが預言されたとおりに、鶏が鳴く前に3度もイエスのことを「知らない」と言ったのです。おそらく、ただ一所懸命に、捕らえられたイエスについて行って、あまり考えないで「知らない」と言ってしまったのではないでしょうか。
 鶏が朝を告げて鳴くのは、まだ日も昇らない暗い時です。まだ闇が覆っている時間です。やがて訪れる朝の光を予告するかのように鶏は高らからに鳴くのですが、まだ闇の時間です。31-34節で、イエスがペトロの裏切りを予告された時も、決してペトロの言葉に嘘はなかったのです。逮捕されたイエスの後をついて行ったのも、主がどうなるか見届けるためでした。ペトロの心にあったのは、主イエスの後をどこまでもついて行こうという固い決心でした。そう、固い決心なのです。しかし、それはペトロの固い決心でした。主が共にいてくださることを含めての決心ではなかったのです。
 主のご受難の記事をもう一度最初から、丁寧に読み直してみましょう。主は逮捕される前から、十字架にかかられる前から、わたしたちが主を裏切ることを知っておられるのです。わたしたちの決意、わたしたちの信仰がいかに弱く、もろいものであるかを知っているのです。わたしたちが主のものにならなければ、わたしたち自身だけでは何もできないことを知っておられるのです。
 闇がまだ覆っている世界の中で、ペトロは主を裏切りました。主に見つめられ、主の言葉を思い出したペトロは、そこで泣き崩れました。どんなに悔いても、悔い切れない自分の罪の姿を見たからです。ペトロ自身の固い決心、しかし、その決心はあくまでもペトロの決心でした。それを主イエスは粉々に砕いてしまわれたのです。ここで忘れてはならないのは、ペトロをはじめとしたわたしたち全てのために主イエス自らが「信仰がなくならないように」と祈っておられることです。砕かれてしまったわたしたちの傲慢の代わりに、主イエスは真の信仰を注いでくださるのです。
 一番鶏はすでに鳴いています。やがて朝が来ます。この裏切り事件はそのような時間帯に起きた出来事です。ペトロは復活の主に逢うまで、もうしばらくの間、時を待たなくてはなりません。

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2005.02.12

父よ、御心ならば

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書 / 22章 42節)
kobito_neru.gifこの記事は言うまでもなく、イエスが捕らえられる直前、オリーブ山での祈りの言葉です。」キリスト教の信仰を求めて求道者会などに出ると、キリスト者の祈りの一つのお手本としてこの言葉を聞きます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。自分の想い出はなく、神様の御心を直く受け入れる。たとえそれが、わたしたちにとっては厳しいものであっても、御心を優先させる。そのような祈りをすることを教えられるのです。  しかし、イエス様の祈りの言葉をもう一度読んでみましょう。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
 イエス様は正直に「。」とまず、祈っておられるのです。神の子である方が、このような祈りをされていることに驚きます。そして思うのです。神様は、このわたしの苦難、このわたしの苦しみ、このわたしの悲しみを全て知っておられる。だからこそ、わたしは、その神様に信頼して「この杯をわたしから取りのけてください。」と正直に申し上げることができる。そして、わたしの全存在を神様のみ手に預けてしまっているからこそ、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈ることができるのではないかと。 主イエスは、人の手に渡される直前に、苦難の中にあるわたしたちに、このようにお手本を示してくださったのです。

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2005.02.05

あなたのために祈った

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカによる福音書 / 22章 32節 )
kobito_lila.gif「シモン・ペトロよ。もうすぐ、あなたはサタンに試みられる。」そうともとれるような緊張する場面です。主イエスは、もうすぐ十字架にかかられる。全てのものが、主の十字架の前に絶望を味わう。そのときがもう間近に迫っている。そのような時に、主イエスがペトロに語られた言葉です。
「信仰がなくならないように。」ペトロはこの後、主イエスが言われたとおりに、「あの男の事は知らない。」と3度も主イエスを否むのです。ペトロばかりではないのです。イエスに付き従っていたもの全員が、主の十字架の前にイエスを信じられなくなったのです。絶望したのです。
しかし、主はすでにそれに先だって言われました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」わたしたちは自分の不信仰を安易に認めてはいないでしょうか。わたしたちの不信仰をすでに主はご存知なのです。不信仰のままであっていいはずはありません。しかし、不信仰を嘆くだけでよいのでしょうか。このような不信仰のわたしたちをも、主はすでに祈り、支えていてくださっている。そのことに確信をおいて、主を見上げましょう。
身の回りに起こる不幸な事件、天変地異、争い。全てがわたしたちを絶望させ、神様の存在を不確かにさせます。しかし、わたしたちはそのような中で、嘆きの中に身を沈めて、神様を呪い、悪魔の唆しに乗るのではなく、わたしたちのために祈ってくださる主を見上げましょう。そうすれば、わたしたちは立ち直ることができます。そればかりではなく、兄弟を力づけることができるのです。

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2004.12.29

その出来事を見に行こう

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 (ルカによる福音書 / 2章 15節 )
kobito_midori.gifキリスト教の福音は、ただ待っているだけでは来ないのです。こんな事を書くとびっくりする方がいるかもしれません。
クリスマスに語られる野の羊飼いの物語。彼らは夜通し羊の番をしていたと記されています。オオカミが羊たちを襲うかもしれないからです。ですから、彼らはその場を離れる訳にはいかなかったはずです。しかし、天使たちが顕れ救い主の誕生を告げると、
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
と話し合い、羊飼いたちは主イエスを探しにベツレヘムの町に向かったのです。羊を一緒に連れて行ったのか、野に置いていたのかについては、詳しく記されていません。聖書はただ、彼らが主イエスを探し当て、神を賛美しながらまた野に戻っていったとだけ記しています。そうです。羊飼いたちは、み使いの言葉の通りのその出来事を見に行ったのです。
神様はわたしたちを神様の姿に似せてお作りなりました。神様は一方的な力でわたしたちを支配されるのですが、また同時に、わたしたちの応答を要求されるのです。
神様に対して「アーメン、その通りです。」と言うことを求めておられるのです。キリスト教の福音は、ただ、待っているだけでは来ないのです。祈り求めること、神様のみ前に行くことが求められているのです。
様々な事情で教会に来ることのできない方たちがいます。牧師に相談してみましょう。きっと何か手だてが見つかるはずです。
様々な理由をつけて教会に来ない人がいます。あきらめないで礼拝に出席することを祈り求めてください。1年に1日でもいい、神様にその1日を献げるつもりで礼拝に出席することを祈って欲しいと思います。
皆さんを主ご自身が招いておられるのですから。

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2004.12.11

わたしの魂は主をあがめ

「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカによる福音書 / 1章 47節)
kobito_bloon.gifマグニフイカート。ルカによる福音書第1章47-54節に記されている「マリアの賛歌」の冒頭の言葉です。「私は主を崇める」をラテン語で言うとこうなるのです。英語で言えばmagnify。大きくするという意味です。英語でも古い使われ方では「褒め称える」という意味があるのです。
エリサベトの所を訪問したマリアは、エリサベトの挨拶を受けました。その挨拶に響き返すように、マリアの賛歌は歌われます。神様の全能、神様のご支配を讃えて歌うのです。マリアは神様を讃えて歌います。決して自分のことを誇らないのです。
わたしたちは、うっかりすると、神様から大きな恵みをいただいた時に、それがまるで自分の信仰の努力の結果であるかのように思うことがあるのです。ただ神様の自由な御心によって、恵みを得たにすぎないのに、あたかも自分の信仰深さの故であったとか、冷静の深さの故であったかのように思うことがあるのです。いや、反対のことの方が多いかもしれません。自分が恵みを得ないのは、あるいは祈りが聞かれないのは自分の信仰の足りなさのためであると、嘆くことは多いのではないでしょうか。
しかし、そうではない。神様は、ご自身の全く自由に御心によって全てをなさるのです。取るに足らないものを取り上げ、富むものを低められる。しかも、全てのことについて良い方向にとなさるのです。 ある神学者は記しています。「いったい、この世の中で誰が飢えているものにパンを与えるのか。病んでいる人をいやすのか。正義を行うのか。しかし、マリアは知っていた。全て神様がされる。救いの日には全てが成就する。だから、ここでマリアは神を讃えて歌うのだ。」と。
わたしたちは、神様に捕らえられていなければ、どんなに良いことをしても空しく、唇には呟きばかりがのぼるのです。しかし、神様に捕らえられたものには、マリアのように神を讃える喜びの言葉が備えられるのです。

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2004.12.05

神を讃える口

すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(ルカによる福音書 / 1章 64節)
kobito_tsuri.gif天使ガブリエルのお告げに対して、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」(18節)と、ザカリアはしるしを求めました。天使のお告げはザカリアにとっては呪いではなく、喜びのお告げでありました。恵みのお告げであったのです。その恵みに対して、受け入れることをせずに、ザカリアはしるしを求めたのです。
「証拠を見せてくれ。その証拠が確かならば、信じよう。」
あることが信じられない時に、わたしたちが口にする言葉です。その口を、天使ガブリエルは閉じたのです。神様のみ前にあってつぶやく口を閉じたのです。人間の哀れな姿の一面がここにあります。
時が満ちて、エリサベトが子供を産むまでの期間、ザカリアはどのような思いで過ごしたのでしょうか。 しかし、奇跡が起きました。人々が生まれてきた子供の名をたずねた時に、ザカリアはガブリエルの伝えたとおりの名「ヨハネ」を記しました。神の意志に従ったのです。そのとたんに、ザカリアの口が開けられ、舌がほどかれました。口から出てきたのは、神様を賛美する言葉です。呟きではないのです。
 今年も、わたしたちはクリスマスの季節を迎えています。2本目のろうそくをともしてアドベントを祝いました。繰り返し心に刻みましょう。
 クリスマスの出来事は、信じる人のところで起きた物語ではありません。神のみ言葉を信じないわたしたち人間のただ中に起きた出来事です。神様の力は、つぶやく口を閉ざし、神を賛美する言葉がおなじ口から出るようにしてくださったのです。

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2004.08.14

しかし、お言葉ですから…

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカによる福音書 / 5章 5節)

kobito_bloon.gifシモン・ペトロはプロの漁師です。イエス様は漁師ではありません。プロの漁師が夜通し働いて何もとれなかったのです。ふつうならば、「素人が何をいっているんだ。」と考えるでしょう。その言葉を無視するかもしれません。しかし、ペトロは主の言葉に従って網を入れたのです。ペトロがどんな気持ちで網を入れたのか。それについては聖書は細かくは記してはいません。しかし、彼がおびただしい魚が網にかかってのを見て、すぐに主の足下にひれ伏し、

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)

といったことから、ペトロが普段から神を畏れていた人物であることがうかがい知れるのです。おそらくペトロはよけいなことは考えないで
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)

との主の言葉にのみ従ったのではないでしょうか。主の言葉に直く従ったからこそ、そこに奇跡が起きたのです。なぜなら、主イエスは人を信じさせるために、神の力を見せつけるために世の来られたのではないからです。主を信じて神に立ち返らせるために来られたからです。
ところで、わたしたちは祈るときに奇跡を信じて祈るのでしょうか。奇跡なんて起きないと思って祈るのでしょうか。いや、ペトロのように、よけいなことを考えないで、ただ、主のみ言葉に直く従い、主イエスにより頼んで祈りましょう。

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2004.07.16

祈るときには

そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。(ルカによる福音書 / 11章 2節)
kobito_aka.gif主イエスは弟子たちの求めに応じて祈りのことばを教えられました。そのことばは「主の祈り」として、今も教会にとって大切なことばの一つとなっています。教会学校にしても、求道者会にしても、初めて祈るときに口にするのは「主の祈り」ではないでしょうか。 主はその一番最初のことばとして、『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』と教えられました。これは、「神様のお名前が聖なるものとされますように」ということです。つまり、私たちが正しく神様のことを知ることが出来ますようにということです。  信仰を持たれない方の場合、『神』というイメージはどのようなものでしょうか。何か漠然とした、超越的な、得体の知れない力を持った方…。そもそも、イメージでしか語れない存在と言うことでしょうか。  しかし、主の示される神は違うのです。この世界をお作りになり、全能であられる方。この世界を支配し、私たちを正しく裁かれる方。私たちはその神様に信頼してすべてを御手にゆだねることが出来るのです。すべてのことが運命ではない、この神様が良しとされて行われていると確信することが出発することが出来るのです。  さあ、ここで宿題です。主の祈りの続きを読んでみてください。そのときに、私たちがまず、父なる神様と主によってつながっていることを思ってください。そのことがなければ、主の祈りは祈りとして理解され得ないのではないでしょうか。反対に、そのことが解ると主の祈りはぐっと深く私たちの心に刻み込まれるでしょう。

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2004.02.22

わたしたちはエルサレムへ上って行く

wedink23.gif イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。ルカによる福音書 / 18章 31節


今年は、2月25日が「灰の水曜日」に当たります。この日からキリスト教会は受難節(レント)の季節に入ります。復活祭(イースター)を迎えるまでの40日あまりを、主イエス・キリストの受けられたみ苦しみを思いつつ、自らの罪を悔い改めてすごす期間なのです。
「灰をかぶる」という言葉を、私たちは旧約聖書の中に見ることがあると思います。それは悔い改めをあらわすしぐさなのです。ヨーロッパのカトリック教会では、灰の水曜日の礼拝の最後に、会衆が祭壇の前に進み、司祭から灰を額につけてもらって懺悔を表すということをしています。
私の属している教会(改革派の教会です)では、このような儀式は行いませんが、受難節のこの時期は、特に祈りに集中するときにしたいと思っています。

今週のみ言葉は、ルカによる福音書から、イエス様がいよいよエルサレムに向かわれるというところです。エルサレムでいったい何が起こるかを、イエス様は弟子たちに語られてました。その冒頭に「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」と言われました。
すなわち、イエス様に起こることは、すべて預言されていた、神様のご計画の中にあったことだというのです。長い長い人間の歴史の真っ只中に来られた主イエス。神様がどこにいらっしゃるのか、あがめるべき方は誰なのかを見失ってしまった、迷子の子供のような私たちを救うために、神様はなんとはるかな昔からそのご計画を実行されていたのです。
今年の復活祭(イースター)は4月11日になります。受難節の間も、各地の教会ではいろいろな会が催されています。どうぞお出かけください。
また、この時期にバッハやシュッツなどの受難曲を聞かれる方も多いでしょう。どうか、お手元に聖書をご用意ください。聖書を紐解きながら受難曲を聴かれると、それが単なる音楽芸術ではなく、信仰を持ってかかれたものであることに気づかれることでしょう。

皆様の上に祝福がありますように。

☆受難節のお勧めサイト☆
日本FEBC AMで聞くことのできるキリスト教ラジオ放送局。お近くの教会紹介もしています。ここのリンク集からネット・サーフィンするのもひとつのてかも。

日本聖書協会 いろいろな聖書について知ることができます。

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2004.02.15

百倍の実を結ぶ種