ヘブライ人への手紙

2005.08.13

誠実に生きる

結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。(ヘブライ人への手紙 / 13章 4節)
kobito_ao.gifこのみ言葉を読む時に、是非、ヘブライ人への手紙13章1節から読んで下さい。手紙の著者が述べていることは、私たちの隣人との関係を、どのようにして整えていくかという問題です。互いに愛し合うこと、旅人をもてなすこと、弱い立場にある人を助けること、そして夫婦の関係。これらのことを貫いているのは、「愛の奉仕」です。しかもそれは「神の愛の奉仕」であることを忘れてはなりません。すなわち、私たちの隣人との関係は、人と人との関係の中のみで語られるのではなく、神と私との関係がその前提になっているということです。
今日のみ言葉を考えてみましょう。ここで言われていることは、淫らな性的な関係のみを戒めているのではありません。夫婦の関係全てに気をつけよと言うのです。夫婦の関係は、「家族」という人間関係を作る核になるものです。それを汚してはならないと、手紙の著者は勧めています。それは、一人一人の人間が、神様によって作られ、命を吹き込まれた一つの人格として存在するからです。夫にとっても、妻にとっても、お互いが自分の同じように神の似姿として作られたものであること、神様の赦しの下に生きていると言うことをまず覚えることが大切なのです。ですから、一方が他方を、虐げるような関係ではいけないというのです。

教会では、結婚式の時に、二人に誓約を求めます。その誓いは、お互いが愛し合っているから、その愛の誓いをするのではないのです。神様が、この人を自分の伴侶としてお定めになった。そのことを受け入れて、互いが神様の下に生きることを誓うか、生涯お互いどうし仕えあうかと言うことを問われるのです。

特に、これから結婚し、新しい家庭を築いていこうという方たち、どうか良くこのことを考えて欲しいと思います。

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2004.10.12

死からの解放

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。(ヘブライ人への手紙 / 2章 14-15節)
kobito_bloon.gifどの時代の、どのような人も一番恐怖を覚えるのは「死」でしょう。「死」は私を孤独にします。全てのものとの関係を切り離してしまうからです。 わたしたちの主イエスキリストは十字架の死と復活によって、「死」を滅ぼしわたしたちに永遠の命に生きることを約束されたと、言われています。これは決して「霊魂不滅」というような言葉で言われるものではありません。わたしたちは、ともする「霊」と「肉」を切り離して考えてしまうのですが、このような二元論からは主イエスに示された救いのみ業は理解し得ないのではないでしょうか。 ヘブライ人への手紙は、わたしたち人間が血と肉を持っているのと同様に、主イエスもそれらを備えられたと記しています。しかも、その理由は 死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため だというのです。霊と肉を切り離す二元論に立つならば、主の受肉は必要ないのです。しかし、主は肉を備えられた。そのことによって、主イエス自らが肉の滅びを支配されてしまってのです、見るべき方を見るために、命を与えてくださった神様を見あげることが出来るようになるために、主は死を滅ぼされたのです。

わたしたちの復活の信仰は、「死んでもまたどこかで生まれ変わる」というような、ふわふわとした確信のないものではありません。わたしたちは造られたものとして、死んだら土に帰ります。それは絶望の「死」ではありません。孤独の中の「死」ではありません。主イエスがそれらに勝利されわたしたちを解放してくださっているからです。ですから、キリスト者は命を生き生きと生きることが出来るのです。今、このときを、たとえ次の瞬間、地上の命を終えるとしても。

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2004.02.29

孤独な試練はない

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。ヘブライ人への手紙 / 4章 15節
kobito_rosa.gif 「この大祭司」といわれているお方は、私たちの主イエス・キリストのことです。祭司とは人々のために神様に仕えるようにと定められた職です。その祭司の中からその年の大祭司が選ばれ、人々の罪をあがなうための供え物やいけにえをささげる仕事をしていました。ここで、この手紙を書いた人は、イエス・キリストはその大祭司であるというのです。旧約聖書の時代には、民の罪をあがなうために犠牲をささげる仕事は毎年大祭司が行っていたのですが、主イエスはこの大祭司であり、また同時に罪のあがないのために備えられた汚れのない犠牲でもありました。 神様はなぜ、その一人ご、イエス様を十字架にかけなければ人を救えなかったのか。それは私たちの罪の深さによります。神にそむくという罪をないがしろにされず、真剣に問われたからなのです。 しかし、その神様は私たちの弱さということにも思いを寄せられる方でした。新約聖書の中に収められている福音書は主イエスの物語です。その物語を読むと、主イエスの道が決して平らではなかったこと。私たち同様に多くの試練を受けられ、悩み、苦しまれたことがわかります。ただ、ひとつ違うことは、イエス様は何の罪も犯されなかったこと。 このお方の十字架の死と復活は、私たちを試練という孤独の中から解放してくださるのです。「私は、私たちの主イエス・キリストを信じます」というときに、私たちの弱さを超えて、孤独の試練の中にいる私たちのまさに隣に、主イエスがいてくださるということを信じることができるのです。 一人で耐えなければならない試練はありません。主がともに戦ってくださるから。復活の主を信じて歩む私たちは、苦しみを思い悩むのではなく、今しなければ成らないことへの第一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。

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