わたしの魂よ、主をたたえよ
わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。(詩編 / 103編 2節)
私の尊敬する牧師のお一人に、どちらかが信仰者でない限り、決して教会に於いて結婚式の司式をされない方がいます。ご両親が教会の会員であっても、長老であっても、引き受けられたことはありません。「少し、厳しいかもしれませんが…」といって、その牧師はその理由を次のように言われました。
教会が古くから大切にしてきた文書の一つに「十戒」があります。その第3戒には
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」と書かれています。その意味するところは、神様のお名前を間違って使用してはいけないと言うことです。只、儀礼的に神の名にかけて誓ったり、神の名を口にすることで呪術的な意味をそれに当てたりしてはいけないと言うことです。
結婚式に於いても、その中で誓約が求められます。今から、新しい家族を作る、二人が一体となって、新しい共同体を作っていく。この伴侶を与えられたことを神様のみわざとして受け入れ、感謝し、この後どのようなことがあっても愛し、助けあうことを誓うかというのです。
誓約に際して問われているのは、今結婚を決意している二人がどれほど愛し合っているかではありません。この結婚を信仰の事柄として受け入れるかどうかなのです。ですから、信仰者でないものが、この誓いをすることは第3戒に書かれている「みだりに主に名を唱える」行為にならないか、というのです。
確かに、厳しい判断です。しかし、私たちの信仰生活は、時としてこれに似た厳しい判断を迫られることがあると思います。
7月8日付であったか朝日新聞の「声」の欄に、ある投書が載りました。7月2日付の同欄に載せられた投書への反論です。東北の公立中学で学校行事として「鹿島流し」が行われました。神社に詣でて神職のお祓を受けると言うことが、プログラムの中にあるために、あるキリスト者に家庭に生きる女子生徒が自分の信仰からそれが出来ないとして早退し、その行事に出席しなかったそうです。特に、教会が学校との関わりを持とうとする時に、様々な誓約を厳しく言われ、活動を制限されているのに、これはどういう事か。信教の自由をうたっている憲法に触れることではないかという投書です。
しかし、7月8日の反論の投書は、これを信仰の問題ではなく、宗教、文化の問題として片づけようとしました。「鹿島流し」は日本の伝統文化である。キリスト教のように、そのように厳しく制限を加えるから、かえって人は不自由になる。学校側も、宗教ではなく、文化伝承を考えてされたのではないか。もっと柔軟に考えて見てはいかがか、というのです。
加えてその方は、外国の観光客の人たちも、神社で手を合わせているし、その方自身も、海外でキリスト像に手を合わせて清浄な気分になると書かれていました。
私は、この記事を読んでとても残念に思いました。日本人の感覚の鈍さを見た思いです。外国の観光客が手を合わせるのは信仰の故ではありません。また、キリスト像は拝礼の対象ではありませんから、手を合わせるのはおかしな事です。
「鹿島流し」が、文化行事ならば、学校行事として行う必要はありません。神社での所作事は不要です。必要ならばそれは宗教行事です。神社が主体となってなさればいいことですし、生徒の参加も本人の意志に任せたらよいことです。強制してはなりません。ですから、学校行事には成り得ないはずです。
ここに潜んでいる問題はもっと深刻に思えます。つまり、「日本の伝統文化を守る」という名目で、私たちの自由が見えない形で踏みにじられていることです。「鹿島流し」にとどまりません。修学旅行の際に、神社を訪れる。必ず拝礼の仕方を教わり、させられるのです。「僕はキリスト者ですから」と言って拝礼をしなかった小学生を、私は何人も知っています。彼らは、「信仰の問題」として、それを捕らえていたのです。「文化の問題」ではないのです。「信仰の問題」ですから、それは「魂の生き死に」の問題になります。それほど深いところで、かの「伝統行事」は考えられたでしょうか。早退をせざるを得なかった生徒は、本当に魂の深いところで、このことを捕らえていたのではないでしょうか。
今週のみ言葉に注目下さい。詩人は神を讃えて言います。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。」
そして続いて言うのです。
「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」
私たちは、唯一の神なる主によって命を与えられている。その神様の御計らいを忘れてはならない。神様のみ旨を忘れてはならない。
これは「信仰」の問題です。
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