ヨハネによる福音書

2006.12.21

滅びる者は一人もなく

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 / 3章 16節)

「神がその独り子をお与えになった。」これがクリスマスの出来事です。
一般にクリスマスと言えば、イエス・キリストの誕生日と知られているのですが、わたしたちはそれをわたしたちの誕生日のように「おめでとう」と祝うのではありません。
神のひとり子が肉を取ってこの世に来られた。それが、その御子を信じることによって全ての人が罪から救われるためであること。この喜びの出来事、奇跡をわたしたちは自分の身に起こったことであると信じて受け入れるのです。
 クリスマスには教会でも様々な行事があります。教会学校の子どもたちが降誕劇を演じ、24日にはろうそくの灯火のもとで礼拝をする教会も多いと思います。子どもたちのかわいい演技を楽しみ、ろうそくの美しい雰囲気に酔いしれるかもしれません。
 しかし、決して忘れてはいけないのです。「神がその独り子をお与えになった。」これがクリスマスの出来事であると。それは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であり、神様はそれほどまでにこの世を愛されたのだということを。この罪の世を呪うのではなく、愛されていることを。

2004年12月18日に公開したものの再公開です。

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2006.09.04

御子によって世が救われるため

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 (ヨハネによる福音書 / 3章 17節)

 神が、そのひとり子、イエス様をこの世にお与えになった。イエス様をこの世にお遣わしなったのは、イエス様によって、この世が救われるためであると、福音書記者は記しました。

私たちは、時々、人の理解の及ばないものに驚き、怖れます。特に、自分に降りかかる不幸や、自分が苦しいとき、困難に出会っているとき、暗い気持ちになったときに、「どうして、こんな目に・・・」と思うのです。

なにか、悪いものがついているのではないか。それもと、自分かなにかどこかで、悪いことをしているためではないか。たたりや呪い、そういう類のものに縛られているのではないか。
しかし、縛られているのではなく、そのようなものを自ら身にまとって、自分自身を縛り上げているのではないでしょうか。

神様がイエス様をこの世にお遣わしなったのは、私たちがしっかりと神様を見ることが出来るようになるためです。私たちは、神様の方をちゃんと見ることが出来ません。神様の正しさの前に、ただ、うつむいてしまうだけ。そのような私たちを助けて、神様をしっかりと見上げることができるように、イエス様はしてくださったのです。

よく、「神を信じないものには、災いが下るぞ。悪いことが起こるのは、神様を見ていないからだ。」と声高に叫んで、自分の所属している団体に勧誘する人たちがいます。でも、神様は私たちを脅して、ご自分の元に戻そうとはないさません。そうではなく、心から、私たちが神様を求めるようにと、むしろ招いてくださっているのです。

私たちがちゃんと神様のもとに来て、「父なる神よ」と呼ぶことができるようにと、私たちの助けてとして、イエス様をお遣わしなったのです。

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2006.06.24

わたしの主、わたしの神よ

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネによる福音書 / 20章 28節)

先日、上野の芸大美術館に、バルラハ展を見に行きました。19世紀から20世紀を生きたドイツの芸術家、エルンスト・バルラハの展示です。バルラハの晩年は、第二次世界大戦のまっただ中でした。ナチスから「頽廃芸術」として批判され、その作品はことごとく撤去されました。

バルラハの作品の一つ「再会(Wiedersehen)」も、「寝間着を着た2匹の猿」と評されました。しかし、この作品は、よみがえりの主イエスとトマスの再会の場面として、現在は紹介されています。主イエスとおぼしき人の手と足には、釘のあとかと思われる小さなくぼみがありました。その人に向かって、トマスが寄りかかっているのです。

この作品をまじまじと見ていて、はっと思ったことがあります。この作品の下敷きがヨハネによる福音書 第20章24節以下の記事ならば、トマスはこう言っていたはずです。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (25)

パルラハは、よみがえりの主イエスにあったトマスを彫像にしました。が、そのトマスは、主イエスの手と足に小さく作られたくぼみ、釘のあとには、目もくれていないのです。ただ、ひたすらに主イエスの顔を下から食い入るように見ています。目を見開いてみているのです。おそらく、この作品は、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」といった、その一瞬を表しているのではないでしょうか。

トマスにとって、甦りの主に出会ったことは、夢のことでも、絵空事でもなく、現実のことでした。よみがえりの主イエスに出会うことは、それほどに確実なことなのだと、バルラハに教えられた一日でした。

エルンスト・バルラハ展は、2006年7月17日まで、山梨県立美術館で行われています。

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2006.05.03

わたしは道であり、真理であり、命である

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書 / 14章 6節)

この聖句を読まれた方は、結構多いのではないか。主イエスを知ることが、私達が救われる第一歩である。それは、主イエスこそ、私達を導く道であり、主イエスこそ真の真理であり、主イエスこそ、私達の命そのものであるからだ。

ところが、私達は、この御言葉を聴きながらも、しばしば、主イエスではなく他のものを求める。教会に於いて、私達は御言葉を聴き、主イエスに繋がることを最も求めなくてはならないが、牧師と親しくなることを望んだり、あるいは、教会員どうして楽しく、仲良くグループ活動をすることが、教会の活動であると勘違いをしたりする。教会の絆が、人と人のつながりにすぎないものだったならば、それはなんと弱いものだろうか。気まぐれ、妬み、嫉妬、悪意、何か問題が起きれば、それを解決するのではなく、その問題によって教会は分裂する。

わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

と主イエスは言われた。主イエスに聴き従うことなし、私達は父なる神を知ることができない。カトリックの信仰者が、胸の前で十字を切る時、必ず縦の線から切る。横は2番目である。その意味は、私達はまず、神と繋がることが求められているからである。横の交わりは、神に許された者同士として、初めて繋がるのである。

主イエスを求めよう。御言葉を聴くことから、私達の地上の歩みを始めよう。

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2006.03.17

真理とは何か

そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネによる福音書 / 18章 37節)

ヨハネによる福音書第18章28-38節は、ピラトに訊問される主イエスの様子が記されています。この箇所を読んでみて、皆さんは何をお感じになりますか。すぐに分かることは、ピラトの問と主イエスの答が、まるでかみ合っていないと言うことです。

ここで問題になっているのは、真実、真理とは何かと言うことです。ピラトは、総督として真実によって主イエスを裁こうとします。訴えるものたちが言っているように、おまえは本当にユダヤ人に王なのか。そのために、神を冒涜したのかと。しかし、主イエスはそれについてはお答えにならず、ピラトは目の前にいるイエスという男については、罪を認めることができないのです。
「真理とは何か」
主イエスがお示しになっていることは、「神の真理」です。そして、「神の真理」は私達人間の側にはないということです。私達は、人間の側の世界の中に、正しさを探し求めます。真理を探し求めます。そして、見つけた正しさを持って、自分を救おうとするのです。しかし、まことの救いは、それでは得られないというのです。
主イエスの示す「神の真理」を私達が主イエスを通して知ること、すなわち、主イエスを私達の救い主として告白することによってのみ、私達は「真理」の中に生きることができるのです。

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2006.03.06

わたしである

イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 (ヨハネによる福音書 / 18章 6節)

ヨハネによる福音書18章の冒頭には、主イエスの逮捕の場面が記されています。イエスを捕らえるために、兵隊たちと祭司長や律法学者たちの差し向けた下役のものたちが、イスカリオテのユダに導かれてやってくるのです。
 ここでのやりとりは、私達をはっとさせます。大勢でやって来たものたちに対して、まず口を開いたのは主イエスの方からでした。ここから一つの会話が始まります。
    「誰を捜しているのか。」
    「ナザレのイエスだ。」
    「わたしである。」
そして、この問答はもう一度繰り返されるのです。

「わたしである。」
主イエスのこの答から私達の頭にすぐに思い浮かぶのは、出エジプト記3章の記事でしょう。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 (出エジプト記 / 3章 14節)

人々が「ナザレのイエスを探している」といった時に、主イエスはご自身を「わたしである」と答えられたのです。私達はここで、今人間の手によって逮捕されようとしている方が、ナザレのイエスであると同時に、まことの神としてお立ちになっていることを示されます。このことが分かると、その続きの物語も、なんのために主イエスはこのようなことをされたかをより深く悟ることができます。
 大祭司の手下に打ってかかったペトロをいさめ、主イエスはあえて人々の手に身を委ねて囚われの身となるのです。しかも、そのようになることは父なる神がすでに備えておられたことなのだと、弟子たちに教えるのです。

 本来ならば、この苦い杯を飲むのは、罪人である人間のはず。それをここで主イエスがおのみになろうというのです。主イエスが私達に定められていた道を、ポイントをガクンと変えるように、変えておしまいになったのです。私達がこのものかダリの意味を心の深いところで知るならば、私達は湖の主イエスに対して、「あなたこそ、わたしの神、わたしの救い主」と告白せずにはいられないのではないでしょうか。

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2006.02.27

しかし、わたしはひとりではない

だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。(ヨハネによる福音書 / 16章 32節)

主イエスは、いよいよ、人々に捕らえられ、十字架の道へと進まれる時が来たことを悟られました。そして、遺言をするかのように、弟子たちにこれからのことを教えられました。
もはや、弟子たちは主イエスを間のあたらにみ、耳でその肉声を聞き、共に歩いていくと言うことができなくなります。それでも、「私はあなたと共にいる」との励ましのことばを主イエスは語られるのです。
と同時に、十字架への道を主が歩まれる中で、誰もが主イエスを否み、主を一人置き去りにし、離れてしまうことをも預言されるのでした。「こんなにも私達は先生を愛しているのに。そんなことがあるはずがない。先生は一体何を言われたいのか。」と弟子たちは思ったに違いないでしょう。

人にみはなされ、一人置き去りにされること、たった一人で苦しみに耐えなければならい事。これほど、私達にとって苦痛なことはないのです。それを主イエス、自らが経験されるというのです。経験されると言うよりも、たった一人で苦しみの中に置かれるというそのことを、主が負ってくださるというのです。この言葉は、単に弟子たちの無理解を示す言葉ではありません。この究極の重荷をも、主イエスは担うのだと言うことを示しているのです。
主イエスを信じる私達は、このことによって勇気づけられます。そして、もはや一人ではないことを知るのです。主が共にいて下さるからです。

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2006.02.05

僕の姿

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。(ヨハネによる福音書 / 13章 14節)

主イエスが弟子たちの足を洗われた記事は、受難週の木曜日に読まれるテキストです。主イエスが弟子たちと共にされた最後の食事、その過ぎ越しの食卓が聖餐制定の場であったということで、受難週の木曜日には教会で聖餐を祝う礼拝を持つところが多いのです。

さて、ヨハネによる福音書13章のこの記事は、私たちに何を示しているのでしょうか。主イエスが弟子たちの足を洗い、この後あなた達も同じようにお互いの足を洗いあうようにと、主イエスはいわれました。互いの協力、助け合いを命じられたとも読むことができます。

主イエスがこのような行動に出た時に、主は「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟」った(3)と福音書は記しています。主イエスが地上の生活を離れようとされている時に、弟子たちに対して語った言葉なのです。
主イエスが弟子たちに示されたのは、僕としてぬかずく姿でした。それは、単に互いが協力し合うというようなものではありません。一人の人を救うためには、その人の下になり、その人を支えていく姿です。私達は、この主イエスのお姿に、神のひとり子であられる方が、そのことをいといもせずに身を低くして私達人間の救いのために仕えられたことを知るのです。
そのように救われた私達も、主が示してくださったと同じように、僕の姿で人々の救いのために働き合うようにと、主イエスは命じられたのです。

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2006.01.08

あなたは神の子、メシアです

マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 (ヨハネによる福音書 / 11章 27節)

ヨハネによる福音書11章は、その福音書の中でも一つのポイントとなっています。ここに記されているのは、ラザロのよみがえりの話です。主イエスが、ラザロを甦らせる、このことがきっかけとなって、律法学者たちのイエス暗殺計画が始まるのです。

ここに書かれていることの本当の中心はどこでしょうか。マルタの信仰告白の言葉であると思います。

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

この信仰によって、ラザロは生き返ったのです。死んでいた者が、再び命を得たのです。聖書には甦る話がいくつか出ています。そのたびに、私たちは、「死という者は、本当には存在しないのではないか」というような、浮ついた誘惑に駆られます。しかし、「死」は現実にあり、また、私たちは土から作られた者であるから、再び土に帰る、という思いも持っています。

では、なぜ、主イエスはよみがえりの奇跡をお示しになったのでしょうか。それは、主イエスが「死」をも支配された者であることを示すためです。そして、私たちの真の命は生物学的な命ではなく、まさに信仰における命、あの、マルタの信仰告白に表れる言葉にあるのではないでしょうか。

「死」の闇をも支配された主イエス、その方は、私たちが待ち望んでいる神の子、メシアであると信じる時に、私たちはたとえこのからだが、その命の限界を迎えて死ぬ時にも、全てを委ねる方のみ手の中に、安心して死ぬことができると思うのです。
それは、同時に生きる力です。死を怖がることがないから、地上の歩みを終える最後の一秒まで、生を生きることができるのではないでしょうか。

マルタの信仰告白の言葉を、私たちも声高らかに告白したいと思います。

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2005.11.29

光に照らされて

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネによる福音書 / 1章 9節)
 ヨハネによる福音書の冒頭は、初めて読んだ人にとっても印象深いものであると思います。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1)
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(4)

この「言葉」は、私たちの救い主、主イエス・キリストのことです。
 光に照らされると、いろいろなものがはっきりと見えてきます。今まで、手探りでしか進めなかった道も、暗がりの中で探しても見つからなかった大切な物も、はっきりと分かるようになるのです。それは私たちにとって、なんと幸いなことでしょうか。

ところが、福音書記者は続いてこう記すのです。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(5)
「暗闇」とは何でしょうか。明らかに、光に対抗するものです。そして、その暗闇は光を理解しなかったというのです。すぐに思いつくのは、「それは、私たち人間のことだ。いや、私自身のことではないだろうか」ということではないでしょうか。

光はとても役に立ちます。と同時に、私たちもその明るみの中に照らし出されて、自分の陰の部分をあらわにされるのです。正直なところ、それは誰にとってもつらいことではないでしょうか。できれば、自分の陰の部分は伏せておきたい。人に見られたくない。自分自身でも見たくない…と。

福音書記者はさらに記します。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(9)

主イエスの光は、世に生きる私たち全てを照らすのです。私たちを照らすために主は来られるのです。それは、私たちの罪を明らかにし、「おまえたち人間は、こんなにも罪にまみれている。ダメなやつだ。だから神の助けが必要なのだ。」と私たちをさいなむためでしょうか。違います。その反対です。主は、私たちが生きるための道を明らかに示すために、この世を照らされるのです。私たちと陰の姿も、その光によった明らかにされます。主は「この光の中へと立ち返れ」と私たちを招かれます。陰が分からなくなるような闇の中にとどまるのではなく、まず、この光の中に立ち返れと呼びかけておられるのです。光を真正面から浴びれば、陰はなくなります。私たちが全てを主に委ねて、主の光を真正面から受ける時に、私たちもまた、光の子として生まれ変わることができるのではないでしょうか。

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2005.04.03

このことを信じるか

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(ヨハネによる福音書 / 11章 26節)
kobito_bloon.gif「親しくしているラザロが重い病に倒れている。」主イエスは、その知らせを聞きました。しかし、彼のいるところはユダヤ。そこへ行けば、イエスは迫害を受けることを弟子たちは分かっていたので、ラザロのもとへ行くことを反対します。しかし、主は不思議なことを言われました。ラザロはただ病に倒れているだけではない。それは、神の栄光のためだというのです。そして、二日滞在された後に、ベタニヤに行かれました。  案の定、ラザロはすでに、死んで墓に葬られ、弔いの儀式が続いていたのです。悲しみに沈んでいるマルタは、イエスを見て近寄り言うのです。 「終わりの日に復活するということは知っている。しかし、ラザロは今死んでしまった。」 マルタにイエスはいわれました。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25-26節)
ラザロを甦らせる記事です。現実のわたしたちの世界では、「死」は「死」として受け入れなくてはなりません。ヨハネ福音書が伝えるこの記事も、「死」というものが絵空事ではないということを示しているのです。「死」はあくまで「死」です。マリアやマルタが悲しみになきくれたように、わたしたちと親しい人たちを分かつ深い溝です。が、主イエスと共にある時にその意味が変わります。主とともにある時に、わたしたちは「死」によって分かたれたものが、分からないところにいってしまうのではなく、神様のみ手に渡されたことを知るのです。主イエスは、問われているのです。
「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
なのに、周りの人々は、イエスもラザロが死んでしまった悲しみの中にいると思っているのです。主は、人々の不信仰を見て憤りを感じられました。
「このことを信じるか。」
この言葉は、一人一人に問われた言葉です。わたしたちにも問われている言葉です。あなたも問われているのです。
「このことを信じるか。」
わたしたちは、この主の問に力強く、「アーメン」とこたえたいと思います。

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2004.09.12

わたしの国は、この世には属していない

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イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハネによる福音書 / 18章 36節)

主イエスは、捕らえられ、総督ピラとのもとで訊問されたときにこのように答えたと、ヨハネによる福音書は記しています。
「わたしの国は、この世には属していない。」
なんと不思議な言葉でしょうか。ピラトをはじめとして多くの者が、この言葉の意味は何かと考えたに違いないと思うのです。
ローマの支配下にあった当時、多くのユダヤ人はナザレのイエスこそ、この世のローマの支配から民族を解放する者と考えていました。ユダヤ人ばかりではなく、ピラトもローマ人もそう考えていたのでしょう。
イエスはここではっきりと言われているのです。「わたしの国は、この世には属していない。」と。
主イエスの指す私の国は神の御国です。神の御国と王として主はわたしたちの所においでになったのです。それはわたしたちをこの世的な縄目から解き放つというのではなく、罪の縄目から解き放つためでした。この世の支配よりも、もっと決定的な、もっと深刻な、そしてどのようにしても絡みついて離れることのない罪の縄目からです。罪の縄目から解放して、わたしたちを神様のもとに取り戻すために、主は来られたのです。
このことを、わたしたちは間違えてはいけないと思うのです。
罪とは何でしょうか。いろいろあります。知らないうちに人を傷つける言葉を発すること。人をそしること。いやそればかりではありません。自分の信仰生活がどんなに熱心な者であるかを正当化する、その横で、人を裁くこともあるのです。
私の知っている方にお医者さんでキリスト者の方が2人あります。そのうちのお一人は、教会の礼拝に来たことがありません。開業医であるその方は、いつ、緊急の連絡が来るかわからない。教会に行っている暇はない。医者であることは神様から与えられたつとめであるといわれるのです。
もう人の方は病院の勤務医でした。そのことはしばしば、礼拝の途中で退席されることがありました。急患のための病院からの呼び出しです。しかし、その先生はいつも誠実に礼拝に来られました。それが、途中で中断されることがあったとしても。
わたしたちにからみつく罪の縄目は、実に巧みに絡んできます。
「わたしの国は、この世には属していない。」
自らの罪を思うとき、この主のお言葉を深く心の中で思ってみたいのです。

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2004.05.22

わたしは既に世に勝っている

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これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。ヨハネによる福音書 / 16章 33節

ヨハネによる福音書のことみことばによって、勇気を与えられた人はとても多いのではないでしょうか。
このことばは十字架にお掛かりになる前に、主イエスが弟子たちに語られたことばです。おそらくは、その後の弟子たちの苦難、迫害のことを思って語られたのでしょう。
このことばが、時と場所を越えて私たちに響くのは、私たちにとっても日々の生活は苦難の連続であるからに他ならならいからでしょう。
人間関係、病気、経済的な労苦…。しかし、本当の苦難とは、私たち自身の惨めな姿を自分自身がまっすぐに見られないと言うことではないでしょうか。
自分の一番いやなところ、それは誰でもが目を背けずにいられないところです。しかし、それから逃げていると根本的な問題解決にならないことが多いのです。なぜなら、自分自身を愛すること、慈しむことが出来ないからです。ナルシストになれと言うのではありません。神様がよいものとしてつくってくださった自分自身を大切にする事なのです。
神様から離れてしまって人間の、身勝手な惨めな姿をまっすぐに見ることの出来ない私たちを、主は神様のもとに取り戻し、励ましておられるのです。
しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

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2004.05.17

わたしがあなたがたを愛したように

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。ヨハネによる福音書 15章 12節
kobito_midori.gif互いに助け合い、取りなし会って生きる。キリスト者の生活の基本のきであろう。 教会では「交わり」と称していろいろな催しを企画することが良くある。バザーであったり、修養会であったり、時には教会の庭でバーベキューパーティーをすることもあるだろう。キリスト者であるということを一つの手がかりにして、人々の交わりの輪ができることは本当に麗しいことである。 しかし、悲しいかな、私たちはその輪の中に私たちの主がおられると言うことをしばしば忘れてしまう。 「互いに愛し合いなさい。」と聖書に書いてありそうしなければいけないのは頭ではわかっている。でも、現実はそうじゃないでしょう。人が集まればウマの合わない人だっているし、けんかだってしてしまうのは仕方のない事じゃないの。 どうか、どうか、「互いに愛し合いなさい。」ではなく、主イエスが言われたのは
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」 であることを心にとめてほしい。
主イエスはどんなにしても神様の方を向かない、神様に逆らい隣人を憎む私たち人間を、十字架の死を通してまでも愛し抜かれたのである、赦してくださったのである。主が私たちを愛し赦してくださったように、私たちは互いに愛し合い赦し合いなさいと言われているのだ。しかも、これは主の掟である。 人を愛することは難しい。憎むことのほうがより簡単である。それは確かに現実だ。だから主に信頼して祈ることが必要なのだ。

主よ、わたしの罪を赦してください。わたしを人を赦し、愛するものと変えてください。

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2004.05.09

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。ヨハネによる福音書 / 15章 5節
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ワイン作りに励むブドウ農家は、ブドウの木を手入れする。ドイツのテレビで見たのだが、ブドウの木に枝を接ぎ木してよいブドウを育てるための作業をするのだそうである。そして、枝が伸びるとたくさんのみがなるようにとその枝を市中に丁寧にとめていく。また、必要のない枝は切り取りブドウの木を整えていくのである。
接ぎ木をするのであるから、その枝が幹にしっかりと付かなくてはよい実は得られない。しかし、そればかりではない。イエス様のたとえは実に巧みである。枝が幹にしっかりと繋がるためにも、ぶどう園の主はブドウの木を一所懸命に管理し整えるのである。このことを忘れてはならない。
主イエスは「ブドウの幹である私にしっかりと繋がりなさい。」とだけいわれているのではない。繋がることはもちろん大切なことの一つである。そして、もう一つの大事なことは、そのぶどう園を主ご自身が管理し養われているということである。
私たちはどうかすると、神ご自身が私たちのために働かれていることを忘れてしまう。そして自分の努力の足りなさ、不信仰を嘆いてはいないだろうか。私たちの思いを遙かに超えて働かれている神の力により頼もうではないか。
主イエスのブドウの幹にしっかりと繋がり、主イエスの与えてくださる恵みに信頼して、よい実を実らせようではないか。

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