使徒言行録

2006.05.17

聖書の読み方

そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。(使徒言行録 / 8章 35節)

世界のベストセラーといわれる聖書ですが、どのような読み方をされているでしょうか。ある人は物語として読み、ある人は文学作品として、ある人は歴史物語として、ある人は人生の教訓を語る者として読んでいます。
キリスト者の私達は、神の言葉として聖書を読みます。聖書は人の手によって書かれた者ですが、神様の御心がそこに働かれていることを私達は信じています。
そこで、神の言葉を理解するために、御言葉を聞き取る信仰の耳を必要とします。そのためにも、私達は、公に語られる教会の言葉、説教を聞き続けるのです。

今週の御言葉では、フィリポはエチオピアの高官の求めに応じて、聖書の説き明かしをします。エチオピアの高官が手にしていたのはイザヤ書ですが、フィリポはここから説き起こして、主イエスの福音を告げ知らせました。教会の説教で語られるべきことは、まさにこのことです。

キリスト者でない方も、ここにちょっと気を使ってみませんか。信仰のめで聖書を見、信仰の耳で聖書を聞くのです。それは、あなたに新しい発見をもたらすと思います。

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2005.05.22

わたしたちを見なさい

ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。(使徒言行録 / 3章 4節)
kobito_bloon.gif「美しい門」で起きた、癒しの奇跡の物語です。 生まれながらにして、歩くことの出来ないこの男には、人に助けてもらって神殿の門の前に座り、物乞いをすることしかすることがありませんでした。 生まれながら歩くことの出来ないと言うこと。それはすなわち、その人が罪を負っているためだと人々は考えていたのです。哀れなこの男に施しをすることで、人々は弱いものに対する憐れみをかけているとの自負を持ったかもしれません。 そこに登場するのが、ペトロとヨハネです。彼らは何をしたでしょう。 この物語の中心で活躍するのは、「見る」という言葉です。
彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、(3-5節)
たたみかけるように「見る」が4回も使われています。そこに「見る」ものは何でしょうか。それは、主イエスの救いの真実です。 物乞いをしていた男が、ペトロとヨハネを見たのは偶然かもしれません。しかし、その男が彼らを見たことから、救いの奇跡が起こるのです。これは、わたしたちには偶然に見えるかもしれませんが、神様の導きです。ペトロとヨハネは彼をじっと見つめました。それは、この取るの足りないと思われていた男の存在をきちんと見たと言うことです。そして、「わたしたちを見なさい」と言いました。これはキリスト者の証です。何か大きな力を持っている、何か良いことをした、私は信仰深い…。そういうことではなくて、主イエスに従い、しかし、その主を裏切り、復活を信じることが出来なかったのに、主イエスご自身によって信じるものとかえられたこの私たちを見なさいと言うことなのです。男は、それでも打算的に、何かもらえると思ってみたと記されています。しかし、打算的であったにせよ、彼らを見たのです。呼びかけに対する応答です。 そのとき、奇跡が起きました。
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 (6節)
これは罪の赦しの宣言です。この男の持っていたのは、確かに罪でありました。しかし、人々の考えているような因果応報の罪ではありません。生まれながら、自分の体に起きたことを呪い、神を崇めることを諦めてしまっていたのです。しかし、彼は、ペトロとヨハネの「見なさい」という言葉に従って、彼らを「見た」のです。そして、ペトロとヨハネによってなされた罪の赦しの宣言によって、真に立つことのできるものへとかえられたのです。

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2005.05.14

言葉を語る

この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。(使徒言行録 / 2章 6節)
kobito_tsuri.gif5月15日、今年のペンテコステです。聖霊が、使徒たちに降り、彼らは力を受け、神のみ言葉をたかり始めました。そして、教会がこの地上に生まれたのです。
その様子を伝える使徒言行録2章の記事には、聖霊を受けた彼らが、様々な国のことばて語り出したと記されています。今、世界にはどのくらいの言語があるのでしょうか。
 このことを思う時に、わたしたちは旧約聖書、創世記11章に記されているバベルの塔の話を思い出さずにはいられません。人々が、高い塔を建て、点にまで達して有名になろうとしたのです。この傲慢をごらんになった神様は、人の話す言葉を全てバラバラにされて、それぞれの意志が通じなくしてしまわれ、人々を散らされたのでした。
 今、ここに、ペンテコステの出来事の中で、使徒たちがそのバラバラになってしまった、様々の国の言葉を持って、神のみ言葉を語り始めます。神様は、再び人々を教会という主の体にまとめようとされたのです。実に、使徒言行録の中には、「一つ」という言葉があちこち見受けられます。一つとなって、この世にさらに救いの言葉をのべ伝えよと、主は言われるのです。
 この世には、教会の中でさえ争いがあり、分裂があるのが現状です。しかし、わたしたち、わたしたちの救い主主イエスを見上げることから初めなげばなりません。わたしたちに出来ないと思われる和解の道をも、主は開いて下さいます。わたしたちに出来ないと思われる、ゆるしの道をも、主は指し示して下さいます。
 ペンテコステ、教会の誕生日。主の平和の元に一つとなることが出来ますように。

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2005.05.10

主の証人

そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。(使徒言行録 / 1章 21‐22節)

kobito_neru.gif主イエスの昇天の後、弟子たちは共に一つになって祈っていました。その中で、まず行ったことは、使徒の欠員を埋めることでした。イスカリオテのユダ。彼は、主イエスを引き渡す手助けをした人物、裏切り者として人々の記憶の中にとどめられています。しかし、このユダもまた、主イエスによって選び出された12人の使徒の一人であったのです。(ルカによる福音書6章を参照)
ペトロは一つとなって祈りを捧げていた中に立ち上がり言うのです。
「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
使徒の勤め、それは、言うまでもなく、主の復活を宣べ伝えることです。12人の使徒の席の一つが空席であるから、それを埋めるための作業をしたのではありません。「主の復活の証人」をたてる作業をしたのです。ですから、主とともに生活し、主といつも共にいて教えを聞き、十字架を見つめ、復活の主に出会ったものの中から選ぶことが必要だったのです。彼らは、二人の人物を選び、さらに神に祈ってくじをひき、マティアを選出したと、使徒言行録は記しています。

わたしたちは、教会の中でいろいろなつとめを果たしていると思います。牧師、長老、執事に限らず、様々な奉仕の業によって、初めて教会は営みをすることが出来るのです。わたしたちは使徒ではありません。しかし、使徒と同じく「主の復活の証人」であると思うのです。
キリスト者との出会いから、教会に導かれ、信仰者となったという人は少なくないと思います。特別な業をするのではない、特別なことを語るのではない。その淡々とした、日常の生き様の中に、主の命の輝きを証することが出来るのではないでしょうか。使徒たちが主イエスの祈りの末に選ばれたように、わたしたちもまた、主によって選ばれ、買い取られた存在なのですから。

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2005.05.01

心を合わせて祈る

彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(使徒言行録 / 1章 14節)
kobito_lila.gif主イエスが、天に昇られた後、使徒たちがまず最初にしたことは、「心を合わせて熱心に祈る」事でした。ここに集まった11人の使徒だけではありません。婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちも、共に祈ったことが記されています。
いったい、何人の人がそこにいたのでしょうか。いったい、どんなことを祈ったのでしょうか。それらのことについては、聖書は何も伝えていません。ただ、「心を合わせて熱心に祈っていた。」とだけ記されています。
心を合わせるとは、心を一つにすることです。熱心にということは、執着してという意味です。
おそらく、彼らはいろいろなことを祈ったのだと思います。具体的なことを一つ一つ挙げて祈ったのかもしれません。具体的なことを祈るのですが、それが成就するか否かは、神様の御心に預けて祈ったのでしょう。もし、祈ったことが成就することのみに神経を傾けるならば、祈りは独りよがりなものになります。心を一つにするどころか、バラバラなものになってしまいます。

わたしの育った教会では、祈祷会に20人くらいの人が集まります。よく牧師が言いました。

「一人が一つのことを短く祈って下さい。なるべく、他の人と重ならないように。ちょうど一本の花を捧げるように。そして、みんなで大きな祈りの花束を献げることが出来るように祈りましょう。」

主イエスの昇天後、使徒たちが祈った祈りも、きっとそんな祈りであったと思うのです。

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2005.04.23

心を尽くすところ

イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(使徒言行録 / 1章 7節)

 kobito_ao.gif主イエスが、天に昇られる直前のことです。弟子たちは、復活の主と共にいることの喜びの中で問いました。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(5節)そこで、主の言われた言葉が今日のみ言葉なのです。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」
わたしたちは、いつも未来に対する不安を抱いています。知ることの出来ない未来に対して、いろいろなことを考えます。この時の弟子たちもそうだったのでしょう。再び、主とともに歩く毎日、喜びと共に、「イスラエルのために国を立て直されるのは、まさに今なのではないか。」と考えたのです。
 さて、今日の箇所の直前に、弟子たちに主はこうもいわれていました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 」(4節)つまり、主は父の約束されたものを信じて、そのときの来るのを待ちなさい、とだけいわれたのでした。
 わたしたちは、いつでも未来に対する不安があります。そして、不安の中でこの神様の約束を忘れてしまうことがあるのです。主は天にあげられる時に、そのことを再度、弟子たちに示されたのです。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」
いつ、神様のみ国は来るのか。いつ、神様の約束は成就されるのか。その、いつ、は、わたしたちの知るところではないというのです。そんなことを気にかけるのではないと、主は教えられたのです。神のみ国は、そのときに来るのです。それを信じていればいいのです。わたしたちが心を尽くすところは、「いつ、来るか」ではなく、必ず来る神様のみ国を信じて、その約束を世に伝えることなのです。
 主イエスは、弟子たちが聖霊を受け、力を受けて、地の果てに至るまで主の証人となることを告げられました。わたしたちもまた、主の証人の一人です。「いつ」を問うのではなく、「今」を問いたいと思います。

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2004.06.07

傍らに常に

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 使徒言行録 / 17章 27節

kobito_tsuri.gifパウロはアレオパゴスに於いてアテネの人々にこのように語りました。「わたしの信じている神様は、この全世界をつくられ、人に命と息を与え、その他のものすべてを与えてくださった方だ。」と。
私たちは、大自然の美しい風景や生命のすばらしさを目の当たりにするとき、神様の創造のみ業を思わされるのです。しかし、もう一方で、私たちの周りに存在する悪、不幸、悲しみといったものはどう考えればいいのでしょうか。
「それは運命だ。偶然の出会いなのだ。」とあきらめるのでしょうか。
「不信仰な私を奮い立たせるための、神様が与えられた試練なのだ。」と思うのでしょうか。
不幸の根源。それは実のところ、私にもわかりません。ただ、言えることは、神様は常に私たち一人一人に必要なものを与えてくださるということです。
試練の中にあるときには、耐えられるようにしてくださいます。信仰の仲間の祈りがあります。み霊自身が私たちのために祈ってくださいます。
悲しみの中にあるときは、その涙を神様ご自身がぬぐってくださいます。
私たちにとって不幸・不利益と思われることに立ち向かうとき、私たちは一人で戦う必要はないのです。
父なる神の創造とその支配を信じるものは、不幸の中でも頭を上げて神様を見ることが出来るのです。

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2004.05.31

神の証人-教会の誕生日

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。使徒言行録 / 1章 8節
kobito_neru.gif2004年5月30日、世界各地の教会ではペンテコステを祝いました。ペンテコステ、教会学校では「教会のお誕生日」といわれています。主の弟子たちの上に聖霊が降り、使徒たちが主の出来事を世界各地に宣べ伝え、教会が始まった日とされているからです。私たちは二つのことを確認したいと思うのです。
一つは、教会が弟子たちの人間的な思いで建てられたのではなく、神様のご意志によって建てられたという事。つまり、聖霊が降って後のことであるということです。もし、人間の思いで、ただイエスを信じるだけのものの集まりであったならば、あっという間に分裂、崩壊し、教会は跡形もなかったでしょう。 わたしの師の一人はいいました。「あれだけ強大を誇っていたローマ帝国は滅びてしまった。しかし、そのローマ帝国に迫害されていたキリスト教は滅びずに、今も生きている。」まさに、神様のみ業です。
もう一つは、神様が教会という共同体をつくられたということ。なぜ、個人的な信仰だけではいけなかったのでしょうか。人の心は本当に弱いのです。情熱をもって、涙を流して洗礼を受けた人であっても、その後試練にあって教会から去った人は少なくありません。主の救いも、神様も信じられなくなってしまった人は多いのです。祈れなくなってしまった人も多いのです。 が、わたしの信仰は、同時に私たちの信仰でもあるのです。主の体なる教会は、まさに主を証するものなのです。主に罪を赦され、生かされているもの同士が、取りなし合って生きているところ。それが教会です。信じられなくても、祈れなくても、わたしの代わりに祈り取りなしてくれる信仰のともがいるのです。何より、その先頭に立って祈り取りなしてくださる、教会の頭、主イエス・キリストがおられるのです。

もし、つまずきにあって教会から離れている方がいらしたら、どうか、思い出してください。あなたは一人ではないことを。

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