キリストの平和
実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソの信徒への手紙 / 2章 14節 )
エフェソの信徒への手紙が書かれた背景には、ユダヤ人キリスト者と、異邦世界のキリスト者の間の確執がありました。律法を守ること、その他の儀式…、あらゆるところで意見の違いがあり、摩擦が生まれたのです。
そのような中で、この手紙は、「平和」の基は何かを教えています。平和の基、それはイエス・キリストです。主イエスは、ユダヤ人キリスト者ばかりでなく、異邦人世界に住む人たちのためにも、救いのみわざを成し遂げられた、と手紙の著者は語ります。なぜならば、主イエスの十字架と復活において、成し遂げられたものは、何よりも、神と人との和解だからです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、共に神に赦され、神の民となったもの同士が、なぜ争うのか。主イエスの救いは、わたしたちの間から敵意という壁(敵ではない!!)を崩してしまったのではないか、と手紙の著者は訴えるのです。
8月に入り、教会学校教案は、「キリストの平和」を取り扱っています。しかし、不思議なのは、教会学校の礼拝で語られる説教が、子供たちの喧嘩、かつての戦争の話、今もなお行われている戦争の話になってしまうことです。
特に、戦争の話をするときに、なぜ、それを対岸の火事のように、「わたしたちは平和を願っているのに、今も戦争をしているところがあります。」と言いうるのでしょうか。
主イエスの救いは、わたしたちの間から「敵意という壁」を取り去ったのです。武器を持つ戦争も、子供の痴話げんかも、「敵意」がわたしたちを罪のわざへと駆り立てるのではないでしょうか。
もし、わたしたちが平和を願うのならば、キリストの平和に生きることです。敵意が崩されたのですから、わたしたちは互いが許し合う関係の中に、生きることです。まず、わたしたちの間から、そのことを行いましょう。戦争は確かに残念です。しかし、わたしたちの間から、敵意ではなく許しあう心が、少しでも育っていけば、平和の道への前進となると信じています。そして、ニュースでは報道されないかもしれないけれど、あの戦火の最中にも、そのように祈りつつ、働いている人たちがそこにいるのです。
キリストの平和がなりますように。
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