エフェソの信徒への手紙

2006.08.13

キリストの平和

実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソの信徒への手紙 / 2章 14節 )

エフェソの信徒への手紙が書かれた背景には、ユダヤ人キリスト者と、異邦世界のキリスト者の間の確執がありました。律法を守ること、その他の儀式…、あらゆるところで意見の違いがあり、摩擦が生まれたのです。

そのような中で、この手紙は、「平和」の基は何かを教えています。平和の基、それはイエス・キリストです。主イエスは、ユダヤ人キリスト者ばかりでなく、異邦人世界に住む人たちのためにも、救いのみわざを成し遂げられた、と手紙の著者は語ります。なぜならば、主イエスの十字架と復活において、成し遂げられたものは、何よりも、神と人との和解だからです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、共に神に赦され、神の民となったもの同士が、なぜ争うのか。主イエスの救いは、わたしたちの間から敵意という壁(敵ではない!!)を崩してしまったのではないか、と手紙の著者は訴えるのです。

8月に入り、教会学校教案は、「キリストの平和」を取り扱っています。しかし、不思議なのは、教会学校の礼拝で語られる説教が、子供たちの喧嘩、かつての戦争の話、今もなお行われている戦争の話になってしまうことです。
特に、戦争の話をするときに、なぜ、それを対岸の火事のように、「わたしたちは平和を願っているのに、今も戦争をしているところがあります。」と言いうるのでしょうか。

主イエスの救いは、わたしたちの間から「敵意という壁」を取り去ったのです。武器を持つ戦争も、子供の痴話げんかも、「敵意」がわたしたちを罪のわざへと駆り立てるのではないでしょうか。

もし、わたしたちが平和を願うのならば、キリストの平和に生きることです。敵意が崩されたのですから、わたしたちは互いが許し合う関係の中に、生きることです。まず、わたしたちの間から、そのことを行いましょう。戦争は確かに残念です。しかし、わたしたちの間から、敵意ではなく許しあう心が、少しでも育っていけば、平和の道への前進となると信じています。そして、ニュースでは報道されないかもしれないけれど、あの戦火の最中にも、そのように祈りつつ、働いている人たちがそこにいるのです。

キリストの平和がなりますように。

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2005.08.23

盗んではいけません

盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。(エフェソの信徒への手紙 / 4章 28節)
kobito_aka.gif 「盗むな」とは、十戒の中の第8戒の言葉です。「盗んではいけない」そんなことは誰でもが知っているのです。しかし、本当に、「盗み」を働かなければ、良いことなのでしょうか。

 時々、海外援助の募金などで、このように聞くことがあるのです。「私たち、日本は富んでいる国です。豊かな国であるからこそ、貧しい人たちを助けなくてはなりません。」私は、この言葉に少し疑問を持っています。豊かであるから、貧しい人たちを助けるのでしょうか。では、自分たちも貧しければ、助けるのではなく、助けられる側になるということなのでしょうか。

エフェソの信徒への手紙4章25節以下では、共同体の一人一人が一つとなり、助け合うことを勧めています。教会は、その初めの頃から、互いに財産を分け合い、助け合ってきました。それはなぜか。互いが、神様に作られ、命を吹き入れられた存在だからです。神様のもとに一つの共同体を作るためなのです。

 それならば、貧富の差、能力の差などは関係ないのです。みんなが互いに出来ることをして、助け合えばいいのです。日本が豊かだから、助ける側にあるのではなく、そこに助けを必要としている人がいるから、助けるのです。

 時々、教会の備品の中に、「○○氏寄贈」と書かれているものがあります。そう命記されていなくても、「あれは、○○さんが献品されたもの」という言い伝えがあるのです。なぜ、名前が必要なのでしょうか。

 「盗むな」の言葉には、人々が共に生きるための大切な事柄が含まれています。神の下に一つとなることです。であれば、私たちは「豊かである」という重い「名誉」を捨てることが出来るのではないでしょうか。

 そして、さらに、無駄遣いをすることを押さえることも出来るのではないでしょうか。自分のために新しい衣服を買い、古くなったものをバザーに出すのではなく、新しい服を買わずにすんだ分を、困っている人たちに役立てることも出来るのではないでしょうか。

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2005.01.29

霊的な歌によって語る

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソの信徒への手紙 / 5章 19節) 
kobito_aka.gifわたしたちは普段、いろいろな人と話をします。議論をすることもあります。時にはそれが喧嘩になることもあります。悲しみのうちにある人に励ましのことばを書ける時もあけば、口汚く罵ってしまうこともあるでしょう。みんな自分の口で行っていることです。 手紙の著者は信仰を持つ人の生活について勧めをしています。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」なさいと勧めています。特別なことを言っているのではありません。わたしたちが日常、話す言葉を神様のみ言葉によって整えなさいと言っているのです。整えられた言葉は、ごく日常の言葉です。では、どのように整えたらいいのでしょうか。
聖書を音読することも一つの手かもしれません。最近はやっている、写すこと、写経ならぬ「写聖書」もいいかもしれません。
 個人的な意見としては、特に詩編の音読をお勧めします。新共同訳聖書の詩編は、特に、礼拝の中で購読されることを念頭に置いて訳されていますから、読みやすくなりました。
 神を讃える言葉を聖書から学ぶ。そのことは、わたしたちの日常のごく、ごく、普通の言葉をも整えていくのです。

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2004.10.25

誰も誇ることがないように

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。(エフェソの信徒への手紙 / 2章 8-9節)
kobito_midori.gifキリストによる救いは、わたしたちの全く外側からの力、神様の側からの恵みによるものです。
わたしたちはよくこういわれることを耳にします。  「こんなに悪いことが起きたのは、きっとどこかで悪いことをしていたからだ。その報いを受けたのだ。」これを人は「天罰」あるいは「運命」といいます。そんな非科学的なことを思っていないといっている人でも、たとえば何か重い病気になった、事故にあった、災害に巻き込まれたという時に「どうしてこんな目に遭うのだ。私は何も悪いことはしていない。」といった声を聞くと思うのです。
 一方、その反対はこうです。よいことをすれば良い報いを受けられる。わたしたちは自らの幸せ、あるいは人々の幸せを願って、よい行いに励むのです。わたしたちはこういった因果応報の世界の中に、知らず知らずのうちに生きているのではないでしょうか。しかし、果たしてそれでいいのでしょうか。良い報いを受けるためにはよいことをしなければならない、という脅しがその陰に潜んでいるのです。法外なお布施や献金を要求する団体がありますが、その手口がこれです。
 「キリスト教は違います」といいたいところですが、残念ながら教会の中にもこの手の罪は潜んでいるのです。一部の有力な信徒が、教会を我がものにしている教会がない訳ではありません。もっとひどいのは、牧師自身が教会を牧師の教会にしているということ。一所懸命に教会のため、世の中のために奉仕しているといいながら、神様のことを忘れてしまっている人たち。良い報いを自分が受けるために、良い行いに励むことの罪をわきまえる必要があるのです。もし、そのような過ちを犯している人がいたら、わたしたちは神様にその人の罪の赦しを請いつつも、慎重にではありますが、レッドカードを出す勇気と知恵が欲しいと思います。
パウロがエフェソの教会に手紙を書いた背景にも、教会の中に様々な問題があったからなのです。しかし、パウロは主イエス・キリストが何故神でありながらわたしたちと同じ肉を取って、わたしたちの所に来られたかを語り、主イエスの十字架の出来事がわたしたちの救いとなったのかを切々と語るのです。
わたしたちの救いは、神様からの一方的な恵みです。それはわたしたちを因果応報という縄目から解き放つ力です。キリストに救われ、生かされているものは、自分を誇ることをせずに、神を誇る者に変えられるのです。その上でなす、わたしたちの行いは、神様に赦されたもの同士が執り成しあって行う愛の業になるのです。

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2004.10.20

キリストの支配

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。(エフェソの信徒への手紙 / 1章 22節)
kobito_rosa.gif「全てのものをキリストの足もとに従わせた」この言葉をわたしたちはどのように読むでしょうか。
世の中のあらゆる権威、力、支配…、そのようなものをキリストは全部支配されている。キリストこそ唯一の神。平和の神。そのことに間違いはないのですが、このことを自らの政策遂行のために利用している政治家のいることを悲しく思います。
イエス・キリストは何故、この世に肉を取ってこられたのか。キリストの十字架がわたしたちに示しているものは何か。このことをパウロはエフェソの信徒への手紙の冒頭で語っているのです。キリストの受肉、キリストの十字架の死と復活。それはわたしたちを悪魔の縄目から解放するためのものでした。神様のことも、同じように神様に赦されて生かされている隣人のこともないがしろにして、自分中心の生き方をしているわたしたち。いや、わたしたちは自分自身さえも欺いて生きていることさえあるのです。
主イエスはそのようなわたしたちを神様の恵みから引き離すものの支配から救ってくださったのです。わたしたちの心をそそのかすものの権力のもとから取り戻してくださったのです。このことを思う時、主イエスご自身も悪魔の試みを受けられた記事を思い起こします。
パウロはこのようなキリストを神様は教会の頭として建てられたと記しています。そうです。教会はキリストの支配のもとにあるのです。キリストが教会の支配のもとにあるのではないのです。ましてやキリストが人の集団の支配のもとに働かれているのではないのです。
今日、わたしたちはこのことを真剣に考えなくてはならないと思います。真実のキリストの支配を求める時に、隣人との対立ではなく対話が生まれるのではないでしょうか。

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2004.06.21

憎しみを捨てて

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。エフェソの信徒への手紙 / 4章 32節
kobito_ao.gifこの、みことばにたどり着くまでに手紙の著者は一体いくつのことを勧告しているのでしょうか。
偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。(25)
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 (26)
盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。(28)
悪い言葉を一切口にしてはなりません。(29)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。(31)
「そんなこと、私は一切していませんよ。」そう私たちは言うことが出来るでしょうか。そればかりではありません。私たちは自分自身、人を愛することよりも憎むほうがよりたやすいことだとよくわかっているのです。 主イエスが言われた「隣人を赦しなさい。」という教えが、一番実現不可能な教えに感じている人は決して少なくはないと思うのです。 確かに、私たちが自分の努力で人を赦そうと思っても、赦すことはなかなか出来ないでしょう。いや、不可能かもしれない。では、なぜ、主はその人間に不可能なことを勧められたのでしょうか。また、その後の使徒たちもこのように教えたのでしょうか。 人間には不可能なことでも、神様に不可能なことはありません。人を赦せない私たち。その私たちのために主イエスが取りなしてくださっているのです。 神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように そう、あなたの「赦せない」と思っているとなり人も神様は赦してくださっているのです。主イエスの故に、私たちは憎しみを捨て去ることが出来るのです。

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2004.06.14

善い業を行うもの

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 (エフェソの信徒への手紙 / 2章 10節)
kobito_midori.gif教会付属の幼稚園や教会学校の子どもたちがよく要求されるのは、「よい子になりましょう。」ということです。そのために「よい子になりますように。」というお祈りもします。しかし、実際はなかなかよい子になれないのです。 「この一週間、お友達や兄弟とけんかしなかった人。」 「…。」 「文句を一言も言わなかった人。」 「…。」 いやいや、この問は大人にだって言えるかもしれません。人のために尽くし、愛の業を行う善い人になるように、そう私たちは祈るとしたら。 「この一週間、仕事の仲間に不快な思いを抱かなかった人。」 「…。」 「不平、不満を口にするだけでなく、心の片隅にも持たなかった人。」 「…。」 (-_-;)(-_-;)(-_-;)(-_-;)(-_-;)

この点は、子どもの方が敏感です。よい子になれない自分をよくわかっているからです。私たちも、その点は子どもから学ぶ必要があるかもしれません。それと同時に大事なことは、

わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた

ということをしっかりと心に刻むことではないでしょうか。
自分を振り返れば、善い人とは到底言えないのですが、それでも、私たちは神様が神様ご自身の善い業のためにつくられたものだというのです。
主を信じるものは自分がよい人になれないと絶望することはありません。主がともにいてくださることによって、私たちは神様が準備された「善い業」を行って歩むことが出来るのです。主に信頼しつつ、惜しむことなく自分の出来る精一杯の努力をすることが出来るのです。

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