マタイによる福音書

2007.08.13

平和の挨拶

その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。(マタイによる福音書 / 10章 12節 )

韓国の教会を訪ねる旅をしたことがある。韓国人留学生であった先輩が、通訳をかってでてくれて、楽しい、また、実りの多い旅だった。その先輩が、たずねる教会で必ずすることがあった。会堂にはいると、まず席の一つに座り、祈るのである。この地に立てられた主の教会に、祝福があるようにと祈っていた。ドイツでも、韓国からの留学生と友達になったが、彼のお別れの時の挨拶はこうだった。「神様の祝福があるように。」

主の祝福があるように。主の平安があるように。

韓国の友人に特有のことではない。キリスト者の挨拶なんだと改めて思った。いつでも、どこでも、主の祝福、主の平安を私たちは祈ることが出来る。いや、祈るだけではない。祈り求めることが出来る。それは、そこに神様の祝福がちゃんとある、神様の平和があるという確信に基づいているからである。

平和の挨拶を送ることは、主イエスが命じられていることなのだ。だから、信仰者は、ただの願望や、希望によって祝福や平和を祈るのではない。私たちが確信して祈るときに、主の祝福と平和が実現するからである。

8月にはいると、毎年のように戦争の話がいろいろなところで話題になる。あの敗戦の日から62年にもなっている。しかし、決して、今の時代が「平和なとき」とは言い切れない。未だに無差別の殺戮があり、無意味に人の血が流され、世の中は悲しみに満ちている。

しかし、私たちは、「だから神様なんかいない」とは言わない。それば絶望を求める言葉だから。私たちキリスト者は、人に会う毎に、人を訪ねる毎に、主の祝福と平安を祈る。それは、私たちに希望をもたらすから。

今日、この御言葉に触れたあなたに、主の平和がありますように。

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2007.08.06

神の国と神の義を求めなさい

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイによる福音書 / 6章 33節)

先日、少し残念な話を聞いた。

Aさんは、若い頃に洗礼を受けた。その方に洗礼を授けた牧師は、「わかってから洗礼を受けるのではない。洗礼を受けてからわかるものだ。」と言って促し、洗礼を授けたそうである。しかし、受洗のあとも、取り立てて何の訓練も、Aさんにはなかった。

やがて、故郷を離れ、東京に出てきたときに、ある教会に転会した。その教会を牧していたX牧師の話に感銘を受けたそうである。X牧師はちょっと変わったところがあった。牧師であるのに、キリストの復活は理解しがたいと言ったという。Aさんも、キリストの復活について疑問があり、その点で、X牧師の言葉に、共鳴するところがあったようである。

X牧師が他の教会に転任され、次に、Y牧師が来た。Y牧師は、聖書に忠実に説教をした。これは、X牧師とはまったく違うタイプの教師であったという。しかし、問題が起きた。教会員の多くが、Y牧師の説教に感銘を受けないと言いだし、教会は分裂。AさんもY牧師の語る言葉に耳を傾けることが出来ず、結局教会から足が遠のいてしまった。

長く教会生活から離れた後、年老いたこともあって、もう一度教会へと言う思いから、自宅近くの教会を訪ねた。しかし、主日礼拝で使徒信条を告白するたびに、キリストの復活を信じていないこと、素直に使徒信条の文書を告白することが出来ないことに苦しみを覚えたという。Aさんのことを心配するキリスト者の友人も、「あなたの頑なさを捨てなさい。」とさとし励ましたのだが、遂に、教会生活をすることを断念し、教会へは行かない決心をしたとの手紙を牧師に書いた。

特別な話のようだが、この類の悲劇は結構耳にする。なぜ、悲劇が起きるのか。信仰の要が初めからはずれているのである。

Aさんの言葉には、「理解する」という意味の言葉はあっても「信じる」という意味の言葉は少ない。洗礼を受けたときも、洗礼を授けた牧師の人柄に惹かれただけであって、主イエスには出会っていなかった。さらに、X牧師の話に感銘を受けたが、Aさんの魂は揺さぶられなかった。感銘を受けるのは、人間的な心の次元の問題である。X牧師の話は、神の言葉ではなく、人の言葉としてAさんの心感銘を与えたにすぎない。ここに、説教者の責任もあるのだろう。

Aさんが、魂に揺さぶりをかけられたのは、最後の教会だろう。教会員が心から主イエスを信じて、信仰告白をするただ中にいて、主の復活を信じることが出来ず、したがって、使徒信条を告白するたびに苦しくなるのは、むしろ当然のことである。なぜなら、主イエスが、その頑なな扉を、拳で叩くからである。「早く、この扉を開けなさい。開けて、私の復活を受け入れなさい」と言われているからである。

しかし、Aさんは別の道を選んだ。もちろん、教会の牧師も、教会員も、また友人も、どれだけAさんの救いのことを祈っていたかわからない。ことある毎に、Aさんに声をかけてきたかわからない。もちろん、今でも、みんなが祈っている。一日でも早く、気が付くように。人が自分を変えてくれるのではなく、人をして語られた神の言葉によって、自分が変わることを。変わるために立ち上がることを。立ち返って、主イエスは私のために死に、私のために復活されたことを信じることを。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この言葉をAさんはどのように聞くのだろうか。神の国と神の義を求めるならば、私たち人間が、その御言葉の前にどんなにあらがっても勝ち目のないことは明白に見えてくる。だからこそ、全てのことを治めておられる主に我が身を安心して委ねることが出来るのではないか。主イエスの復活も、理解することではなく、信じることが求められていることに気が付くのではないか。いや、今からでも遅くはない。気が付いて欲しいのです。気が付いて、回れ右をして、教会に帰ってきて欲しいのです。

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2007.07.10

明日の苦労を背負い込まない

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書 / 6章 34節)
聖書を読んでいると、その聖句に触れると、必ず立ち止まってしまう箇所が、いくつかある。マタイによる福音書、第6章25節以下も、そうだろう。

先日、20人ほどのご婦人たちとこの箇所を読んだ。おそらく、そこに集まった方たち、また、今、この記事を読んで下さっているあなたも、苦労がなかった一日など無いに違いない。誰でも、大なり小なり、その日の苦労があり、試練があり、心配事がある。それら一つ一つを、気に病めば、ますます不安で心が重くなる。そこで、主イエスは、「思い悩むな」と言われたのだろうか。

改めて、6章の最初から読み直してみた。5節からは、主の祈りが書かれている。そして、何度も何度も、記されているのは、神の国と神の義を求めること。神のご支配のあるところ、私たちの必要なものは全て主によって与えられるという。
主の祈りの中に、

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 」(11)

がある。明日の糧ではない、あさっての糧も、でもない。今日の糧である。イスラエルの民が、エジプトを出たあと、荒れ野で食べ物が無くなったときも、主なる神は、【今日】食べるマナを与え、【今日】食べるウズラを降らせた。

あのときも、【食べるものが再びなくなるかも知れない】と不安にかられた何人かの人は、明日のマナを集め、明日のウズラを捕ったが、何にもならなかった。
私たちは、あすの糧ばかりが、明日の労苦、あさっての不安まで抱え込んではいないだろうか。あすの労苦を抱え込んでしまって、今日、主が助けを与えて下さっている恵を、見失ってはないなだろうか。

あすの労苦まで抱え込む必要はないのだ。今日、主によって助けられて歩む、そのことを感謝し、希望を持とう。明日には、あすの助けがまた与えられるのだから。そして、私たちがつなぐ希望は、きっと闇のように見える試練に、光と勝利をもたらすのだから。

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2006.07.19

最も重要な二つの掟

律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイによる福音書 / 22章 40節)

「この二つの掟」とは、

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 
と『隣人を自分のように愛しなさい。』

のことです。どちらも、旧約聖書、申命記の中に出てくる言葉です。そして、主イエスは、この二つのおきてが、旧約聖書に著されている全ての律法、全ての預言の基となっているといわれました。

わたしたちは、普通、第2の戒めは飲み込めると思うのです。『隣人を自分のように愛しなさい。』 人間は一人では生きていくことができません。ならば、できるだけ多くの隣人と助け合い、平和な社会を作ることを目指します。
では、主イエスは、この戒めを第2とし、なぜ、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』  を第1とされたのでしょうか。
わたしたち人間同士が平和であれば、それで良いのではないか。なぜ、それに先だって、神を愛することが求められているのか。

その答は、わたしたち人間が神を愛する以上に、神がわたしたちを愛していてくださることにあると思います。

あるときに、銀婚式を迎えたご夫婦が次のようなことを言われました。
「わたしたち夫婦が、25年間、共に暮らすことができたのは、神様の御守りによります。私が妻を愛することができたのは、この妻を神様が彼女の罪を赦し、愛してくださったからです。神様がゆるしあいされているものを、なぜ私が、赦し、愛さないでいられるでしょうか。」ご夫人の方も、同様のことをいわれました。

夫婦の関係のみならず、わたしたちが人を愛しようと思ったときに、人間の努力だけでは愛することのできない現実にぶつかります。愛は容易に嫉妬に代わり、憎しみに変わるのです。しかし、この人を主なる神様が赦し、愛してくださっている。この私を赦し、愛してくださるのと同様に、この人を愛されている。そのことに気づいたときに、わたしたちは真心から人を愛することができるのです。それを知るには、神を愛することから始めなくてはわからないのです。

わたしたちが神の愛を知り、神とのつながりを持ったときに、横のつながりをもしっかりと持つことができるのです。

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2006.04.02

あなたがたの天の父

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。(マタイによる福音書 / 6章 26節

山上の説教の一節です。もう何度も耳にし、目にしている聖書の箇所であるかもしれません。天の鳥も、野の花も、決してあくせくと働いているわけではない。それは天の父が養っていてくださるからだ。しかし、ここで主イエスは、あくせくと働かないで、神を信じ、のんびりと生きることを勧めているのではありません。
ここで、私達が心にとめておきたいのは、この御言葉の中心に「天の父」がおられると言うことです。しかも、主イエスは「あなた方の天の父」と言われるのです。天の父、すなわち神様は、私達の無縁の方ではないのです。何よりも、私達は神様の姿をかたどって作られていることを忘れてはなりません。そして、私達がどのような者であろうとも、神は私達を養ってくださるのです。しかも「私達の天の父」として、私達を養ってくださるのです。
その上で、主イエスは言われるのです。明日のことを思い煩わないで、今日一日を精一杯に生きるのだと。私達が、私達の天の父の支配の中にいると信じる時に、不安も、思い煩いもかなぐり捨てて、今、この時を一所懸命に生きることができるのだと。

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2005.10.01

元気になりなさい

イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。(マタイによる福音書 / 9章 22節)
kobito_midori.gifマタイによる福音書9章18-26節の物語の中では、二人の人が癒されています。一人は長い間患っていた女。もう一人は、たったいま息を引き取った娘。この二人は、絶望のただ中に立たされていました。この二人の共通点は、絶望のただ中で、主イエス・キリスト、この方の他には救いは得られないと信じて主の御前にひれ伏したことでした。
 長血を患っていた女は、おそらく、幾人もの医者にかかったことでしょう。いろいろな人から、こうすれば治るかもしれない、ああすれば治るかもしれないと教えられたでしょう。心からなる善意を受けたこともあれば、騙されたこともあるかもしれません。主イエスのもとに来た時は、まさに、身も心もボロボロになっていたのです。
 この女をイエスは振り返られた、見つめられ、そして言われました。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

一方、もう一人の娘の状況はもっと深刻でした。すでに死んでしまったのです。父親である指導者は、主イエスのもとに来て言いました。
「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」(18)
主イエスはすぐにその家に赴かれました。そして、娘の手を取り、甦らされました。神のみわざがここでも奇跡を起こしました。

さて、現代に生きる私たちには、死んだ者が甦ったりすることは、ほとんどないと言ってもいいかもしれません。そうなると、こういう聖書の箇所は、単なるファンタジーなのでしょうか。

ここで癒された二人に(聖書には記されていませんが、おそらく死から起きあがった娘に対しても)主イエスは、
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
と言われたのです。そうです。主イエスを救い主と信じる信仰は、私たちを元気にするのです。この元気はどんな困難に出会う時にも、希望を持ち続けることの出来る元気です。
この物語のように甦った人をわたしは知りませんが、死を宣告された後、天に召されるまでの間、その命を生き生きと生きた人を知っています。飢えと戦争のさなか、何をしても焼け石に水の状態の中で、その地域の人々の健康のために働き続けた医師を知っています。

私たちが日々出会う困難は、小さいかもしれません。大きいかもしれません。その大小に変わりなく、私の全てが、生きている時も死ぬ時も主イエスキリストのものである、という信仰に立つ時に、私たちは本当の元気を得るのです。主イエスは、私たちにも言われます。
「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救う。」

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2005.09.27

神の子が来る

イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。(マタイによる福音書 / 8章 32節)
kobito_rosa.gifこの時、主イエスはまだ、ご自分が何者であるかを証されていませんでした。ですから、人々が豚飼いたちから、飼っていた豚がなだれを打って湖に飛び込んでしまったことを聞いても、そこで何が起こったのかを理解することが出来なかったのです。恐れのあまり、彼らはイエスに、この村から出て行ってもらいたいと行ったと記されています。

ガダラ地方で最初にイエスが会われた二人は、悪霊にとりつかれていました。自分では自分を制することが出来ず、暴力をふるっていたと言います。この悪霊こそは、イエスが何者であるかを知っていたのです。ですから、すぐにイエスの前に来て訴えました。

「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」 (29)

主イエスの前において、悪霊たちも自らの力でどこか他に移動することも出来なかったのです。彼らは自らの力で出ていったのではないのです。主イエスの「行け」という声に、初めて豚の中に入っていくことが出来ました。しかし、それは彼らの滅びにつながりました。

このやりとりを豚飼いたちが理解していたら、あるいは、主イエスが何者であるかを知っていたら、村の人たちはどう振る舞ったでしょうか。もしかすると、主イエスの十字架の出来事を伝え聞いた村人は、「あのときのイエスが・・・」と思ったかもしれません。そのうちの幾人かは、主イエスの弟子の下に馳せ参じたかもしれません。

いま、この御言葉を読む私たちは、はっきりと知っているのです。そして、そのことをはっきりと告白することが出来るのです。この主イエスこそ、神のひとり子、私たちの救い主。

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2005.09.20

なぜ怖がるのか

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。(マタイによる福音書 / 8章 26節)
kobito_bloon.gif多くの人々を残し、弟子と共に対岸に渡られるイエスの物語です。その途中、舟は嵐に遭い、今にも沈みそうになります。
「主よ、助けてください。船が沈んでしまいます。」
弟子たちは、あわてふためき、イエスの助けを求めるのです。しかし、等の主イエスはぐっすりと眠っておられました。
不思議な話です。舟に乗り込まれる前に、主イエスに言った者がありました。
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(マタイ8:19)それに対する主イエスの答は 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 (20)
です。しかし、今船の中でイエス様は枕して寝ておられるのです。
私たちが平安を得る場所はどこにあるのでしょうか。教会の中でしょうか。古くから教会は、今日の聖書に箇所になぞらえて、「舟」にたとえられてきました。そこにいれば、確実に安心なのでしょうか。
教会という舟も、世の中の荒波をかぶります。そればかりが、教会の中にも波風の立つことがあります。出航してしまった舟の中で、諍いが起きたら何が起こるでしょう。そう考えると、私たちの平安は本当に教会の中にあるのか、という声も聞こえてきます。

与えられた御言葉をよく読みましょう。
弟子たちが用意した舟は、嵐に揉まれました。波に飲み込まれそうになりました。乗っていた弟子たちは恐怖に駆られました。本当に沈んでしまいそうな、弱い船、小さな舟なのです。そのために、弟子たちは主を呼びました。これもまた、誤りとは言えません。
が、主イエスは言われます。
「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
何よりも、主イエスご自身が、この弱い、小さな舟に乗り込まれていることを、私たちは覚えなくてはなりません。どんな困難な時にも、主イエスが共にいてくださることに、私たちは希望を持つのです。

近年、教会の教勢がふるわないことを憂い、様々な催しを試みる教会が多いように思います。それもまた、一つの手だてかもしれません。しかし、時に、そのような教会の動きを見ると、そこの教会の牧師をはじめ、信徒の方々は本当に主の導きというものを信じているのだろうかと思うことがあります。残念ながら、わたし、個人の知る限り、イベント屋になりさがった教会は一時期は人がたくさん集っても、信仰の足腰が強くないので、時がたてば人は去り、状態はもっとひどくなっています。どんなに大きな舟を建造し、人の目に魅力ある舟であるという宣伝をしても、そこに主ご自身がおられなければ、沈む舟にしか成り得ないのです。

真の平安を伝えるために、真の教会を建てていきましょう。

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2005.09.10

わたしについて来なさい

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(マタイによる福音書 / 4章 19節)
kobito_tsuri.gif主イエスが、一番最初の弟子たちをお召しになった時の記事です。ペトロとアンデレ、続いてヤコブとヨハネ。彼らはガリラヤ湖の漁師でした。それ以外の何者でもありませんでした。が、彼らを主イエスのまなざしが捕らえ、呼びかけたのです。
「私について来なさい。」
これはとても不思議な言葉です。主は「私の弟子になりなさい。」とも、「神の国のことを教えてあげよう。」とも言われず、ただ、
「私について来なさい。」
と言われたのです。
この言葉をギリシャ語の聖書で読むと、「私の後を来なさい。」となります。このことは、英語やドイツ語の聖書を読んでも分かると思います。つまり、主イエスは、ご自身が歩まれる後を、そのままついておいでと呼びかけられたのです。
4人の漁師たちは、その生業の道具である舟も、網も、そして家族さえもその場に残して主について行った、と福音書は記しています。

後に、主イエスは、エルサレムに向かわれることを明確にされた時に、この弟子たちに語りました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16:24)

この言葉の厳しさに、弟子たちは一瞬驚いたのだと思います。しかし、彼らはその場から去ったのではなく、エルサレムまで主について行きました。そして、最後の最後で主を捨ててしまいました。

それから3日後、主イエスご自身が彼らの恐れを破るようにしてその真ん中に立たれたのです。弟子たちは皆、自分が最初に主イエスに召された時のことを思い出したに違いないと思います。あのとき、自分は自分の生業の道具も、家族をも残して主にしたがっていった。それでいいのだと思った。そして、主の厳しさの前に、それが生ぬるい自分の思いであるかとも思った。しかし、今はっきりと言える。このお方、主イエスの後をひたすらについていけばよいのだ。信じてついて行けばよいのだ。主イエスは、そのことを自分たちを召した時、その最初から言われていたではないか。

主イエスは全ての人に言われます。
「わたしについて来なさい。」
その道は、決して辿ることの出来ない道ではありません。使徒たち、世々のキリスト者たちが歩み続けたように、信じてついていくものには、主ご自身が、私たちが辿ることの出来るように助けてくださる道なのですから。

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2005.08.06

兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける

しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(マタイによる福音書 / 5章 22節)
 kobito_midori.gif十戒の第6戒「殺してはならない」について、主イエスはこのように言われました。つまり、人を殺めることのみならず、人をおとしめること、人に対して腹を立てることも同罪だというのです。
 人を殺めることは、その人の命を奪うことであると同時に、その人との関係を絶ってしまうことになります。人をおとしめること、人に対して腹を立てることも、その人との関係を絶ってしまうことになります。
 このことを深く思う時に、私たちは、まず、神様と私たちとの関係を顧みずにはいられません。神様の前に立ち得ない私たちを、神様はゆるし、救い、神様自身の側から招いておられます。そう、それは私に起こったことであると同時に、私の隣人、私の的と思うような人に対しても起こっていることなのです。そうであるならば、私たちは神様との関係の家に隣人との関係も築くことが出来るはずです。人を殺すこと(精神的な殺人も含めて)は、私たちと隣人の関係を損ねるばかりが、私たちと神様との関係をも絶ってしまうことになります。

 8月にはいると、「戦争」について様々なことが言われます。一方では「平和のために戦争のない世界を」と言いながら、他方では(しかも、同じ口が)「国を守るため、正義を守るため、平和を勝ち取るための闘い(戦争)が必要である」というのです。

 一つの凶悪な事件が起これば、「再発を防止する」と称して取り締まりが行われます。しかし、人を疑うことからは、平和ではなく争いや悲劇しか生まれては来ないのです。

 私たちは、今こそ、「真の平和」のために祈りをあつくしたいと思うのです。

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2005.04.17

敵のために祈れるか

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイによる福音書 / 5章 44節)
kobito_midori.gif主イエスが教えてくださった主の祈りの中に、
わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪を、おゆるし下さい。(日本キリスト教協議会訳)
という祈りがあります。実の多くの人たちが、この祈りの言葉まで来ると、思わず立ち止まってしまうといいます。  わたしたちの周りで、困難を抱えている人、病気の人、弱い立場にいる人たち、そういう人たちのことはたやすく祈ることが出来るのに、わたしたちに罪を犯す者、悪をなすもの、害を加えるもののことをゆるし、祈り事が出来るのでしょうか。祈るよりも、呪ってしまう方が本当ではないかと、いうのです。本当に、難しい問題です。

 かつて、韓国を旅行したことがあります。独立記念館に行きました。とてもショックでした。展示されているものの中から、少なからず、憎しみの感情が読んでとれたからです。「なにも、こんな展示の仕方をしなくてもいいものを・・・」と思ったことも、正直なところです。でも、一番ショックだったのは、自分が何も知らなかったということでした。歴史の授業では、先生は教科書の枠を超えて、真実に迫るような話題も、どんどん教えてくれました。しかし、耳学問と実際の肌身で感じるものは違います。
 その後、チェアムリへ行きました。かつて、抗日運動の指導者がいるとされ、村人が教会に集められ、教会ごと焼き払われた地です。この焼き討ちを命じた日本の指導者は、後に村人たちの前に引き出されました。憎しみのうちに殺されそうになったのを、村の長老である一人の女性が、「ゆるしてやれ。」と言ったそうです。裁きは神に任せろと言うことだったと聞きます。この村は、とても優しい雰囲気にあふれていました。ですから、なおさら、悲しみが深くなりました。

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

主イエスは、こういわれた根拠を次のように説明されています。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(45節)

わたしたちが「敵」と思っているもの、「迫害者だ」と思っているものに対しても、父なる神は同じように愛されている。養われているというのです。一体、わたしたちは人をゆるし、神様に取りなすことが求められているのに、裁くことは出来るのでしょうか。出来ないのです。裁いてはいけないのです。敵のために祈れないのであれば、その敵のためにも救いをもたらす神様に願い出て、憎しみを捨てることが出来るように助けてくださいと、祈るほかないのではないでしょうか。

今、本当に悲しいニュースを毎日、見ています。石を投げる人も悲しければ、それに対して、表情を変えずに自分の立場のみを主張する人たちも、悲しいです。お互いの立場を正当化するのではなく、許し合い、歩み合って、真の平和の世界が来ますように。主よ、助けてください。

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2005.02.19

あなたがたは皆わたしにつまずく

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。(マタイによる福音書 / 26章 31節)
 kobito_tsuri.gifマタイによる福音書の記者は、イエスがゲツセマネで祈られる前に、このように弟子たちに語ったと記しています。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と語られたのです。
 教会で良く聞く言葉の一つは、「わたしは○○につまずいた。」というものです。同じ教会で過ごしている信徒につまずいた。○○さんにつまずいた。教会の長老、役員につまずいた。牧師につまずいた。神様につまずいた。こうしてみると、どれもゆゆしき問題です。このようなものにつまずかない信仰生活をしたいと誰もが考えます。
 ところが、聖書には先にあったように、すでに主イエスが弟子たちに、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」といわれているのです。主イエスの生の声を聞き、主から直接教えを受けた弟子たちが、事もあろうに、主イエスご自身につまずく、と書かれているのです。
 改めて考えてみると、つまずかずに信仰生活を全うしたという人はいるのでしょうか。大なり小なり、わたしたちは何かにつまずいているのです。つまずいて転ぶ経験をしているのではないでしょうか。
 小さな子どもを見ているとよく分かるのです。歩きはじめの子どもはよく転びます。しかし、転ぶことを畏れずに歩きます。上手に歩けるようになっていきます。転んだ時は、大きな声で泣きます。助け起こしてくれるお父さん、お母さんを、大きな声で泣いて呼ぶのです。それでいいのです。信仰のつまずきも、転んでそこで萎えて倒れてしまうのではなく、助け起こしてくださる方を大いに泣いて呼べばいいのです。つまずいている人を見たら、助け起こしてあげればいいのです。
 「あなたがたは皆わたしにつまずく。」わたしたちがいろいろなものにつまずいてしまうこと、いや、すでに主イエスにさえつまずいてしまうことを主自らが承知しておられるのです。素直になりましょう。転んでも助け起こしてくださる主の前に、直くありたいと思うのです。

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2004.11.29

罪人のただ中に

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書 / 2章 2節)

kobito_neru.gif今年も主イエス・キリストのご降誕を待ち望む季節に入りました。教会学校でもクリスマスページェントの練習が始まっているところが多くあると思います。28日の主の日に訪れた教会でも、博士たちの歌が響いていました。
毎年思うのです。当方の博士たちは、いってみれば異邦の民。しかも、占星術の学者たちであったと言います。神の言葉ではなく、星占いのよってこれから起こることを知る人たちであったのです。その博士たちが、星に導かれてやってくる。ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに長い道のりをやってくるのです。
一方、イスエラルの人たちはどうであったでしょう。彼らは預言者の言葉、イスラエルの民を救うメシアがやって来るという知らせを信じ、それを待ち望んでいたはずです。
神様のなさりようはなんと不思議で、なんとわたしたちの思いを超えていることか。
毎年思うのです。わたしたちもまた、主イエス・キリストのことを知り、クリスマスを喜びの時として祝うのです。そのことは少しも悪いことではありません。でも、何か足りない。何かがかけている。クリスマスの物語を読むと、そこには自分の思い、自分の期待を前に出す人間の罪の姿があることに気づくのです。あんなにすてきなクリスマスの物語の中に、すでにイエス様を拒んでいる人の姿があるのです。
このことは何を示しているのでしょうか。そう。主イエスは信じるものの所に来たのではありません。主イエスを拒むものの所に来られたのです。すでに、降誕の時から、ご自分が「この男を、十字架につけろ」と叫ぶ人々の真ん中に来られたことを知っておられたのです。ご自分の十字架と復活を通して、そのような罪人たちの目を開き、まことに命に生きる者に変えるために、主はわたしたちの所に来られたのです。
毎年思うのです。アドベントはそのことを深く心に刻む時だと。そして待つだけではなく、主が来られることを祈り求める時であると。

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2004.09.26

今日一日の労苦

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書 / 6章 34節)
kobito_neru.gif主イエスはこのようにいわれました。顧みてみれば、わたしたちは思い悩むことがなんと多いことでしょうか。特に、見えない未来、将来に対する不安はいつもわたしたちを捕らえて放さないと思います。「一寸先は闇」という言葉は、そんな不安をよく表している言葉でしょう。 わたしたちの主はいわれました。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
「わからないことを悩むのはくだらない」というのではないのです。確かな約束、確信があるから主はこういわれるのです。確かな約束。父なる神様がこの私の全てを支配されている、私の全てを知っておられるからです。私にはわからなくても、神様には全てがわかっているのです。その神様に全てをゆだねているので、もう、思い悩むことはないといわれるのです。 では、なぜ、この世に不幸があるのでしょうか。なぜ、不安があるのでしょうか。なぜ、悲惨なことが起こるのでしょうか。これは難しい問だと思います。しかし、わたしたち主を信じて歩く者は「難しい」「神様の理不尽」といって、あきらめることをしないのです。「全てをご存知の神様は、わたしたちの知るところを遙かに超えて、わたしたちに全てが益となるように働いてくださる。」そのように信じることから一歩を始めます。信じることによって前進することができるのです。 不安のうちに何もしないのではなく、今日一日の労苦、一時一時の課題を誠実にこなしていくことを求められているのです。

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2004.08.31

密室の祈り

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイによる福音書 / 6章 6節 )

kobito_midori.gif「祈ることに於いても、わたしたちは罪を犯す」
こういう事を聞いたことがあるでしょうか。神様に願い求めること、そのことに於いてもわたしたちは過ちを犯すことがあるというのです。
わたしたちは祈るとき、どのような思いで祈っているでしょうか。「今日は、本当によく祈れた。」という満足感を得るためでしょうか。美しい言葉を用いて、美しい祈りをし、人の心をウルウルとさせたいためでしょうか。
 マタイでは祈りは父なる神に請い求め向かってするということに集中しています。それは、他の人が自分の祈りをどう思うかと言うことを気にするなと言うことだけではありません。自分自身をも注意する必要を説いているのです。
 わたしたちは、神様の前にあっては、祈りの言葉すらも完全な者とは成り得ないのです。ですから、もし、祈ることに満足感を得るとするならば、その祈りは偽善の祈りに成りはしないでしょうか。
 不完全なわたしたちが、神様に聞き届けられる祈りをするならば、主イエスがここで言われるように、父なる神の前にひれ伏し、ひたすらに罪の赦しと救いを請い求め、与えられた恵みに感謝することにつきるのではないでしょうか。
 祈りは難しいことではありません。しかし、わたしたち一人の力では完全な祈りは不可能なのです。ですから、わたしたちは祈ります。「主イエスのみ名によって アーメン」と

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2004.07.25

主のもとに休む

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書 / 11章 28節)

kobito_lila.gifこの、みことばは聖餐の食卓を囲むときに読まれるものです。この世の勤め、あるいは信仰の戦いにへとへとになって教会に帰ってくる。そういうものに対して語られたのでしょうか。そういうこともあるかもしれない。しかし、そればかりではないのです。
このことばは、主イエスが主を通さなければ父なる神を知ることはない、といわれた中で語られたことばです。疲れたもの、主のを負うものは、この世の勤めや信仰の戦いでへとへとになっている人とは限らないのです。むしろ、自らの罪の重さに耐えかねているわたしたちに向けて語られているのです。
神様の方を正しく向いていられなくなる。この世の誘惑に負けると言うこともあるでしょう。あるいは、信仰に励んでいるつもりで、実は自分のことにしか目が開かれていないと言うこともあるのです。「がんばる」と言うことは「我を張る」、つまり自分の努力で何とかしようと踏ん張っていると言うことなのです。神様への信頼を忘れてはいませんか。
主イエスは言われました。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(29-30節)

自らの罪の重さに疲れてしまって、神様が見えなくなっているものは、私の所に来なさい。私を信頼して、私のくびきを負って学びなさい。主に信頼して本当の安らぎを得なさい。本当の安息を学びなさい。といわれているのです。それは決して難しいことではありません。主のかけられるくびきはおいやすく、荷は軽いので、それに押しつぶされることはないと約束されているのですから。

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