創世記

2006.08.06

平和を願うもの

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創世記 / 32章 27節)

 ヤコブは一番最後に残りました。これから、兄エサウとの再会をしなければならない。兄と別れたのは、遙か昔のことです。兄が思慮に足りなかったとはいえ、長子の特権を奪い、母が勧めたからとはいえ、兄が受けるはずの祝福を奪ってしまったヤコブです。殺意を抱く兄の手から逃れて、長い時間がたちました。神様の命令に従って、故郷に帰るとはいえ、どうやってあの兄、エサウと再会したらいいのでしょうか。

 ここでもヤコブは策を練ります。自分のキャラバンを二つに分けました。贈り物を先に行かせました。家族を先に進めました。そして、ヤコブは一番最後を行くことにしました。エサウの隊が襲ってきても、逃げることができると考えたのでしょう。

 しかし、ひとりぼっちになった夜に何者かがヤコブを襲ったのです。多くの場合、この何者かを「神のみ使い」と人々は読みました。なかなか勝負がつかない中、御使いはヤコブの腿の関節を打ちました。ヤコブは立てなくなり、御使いにしがみついたのです。
「祝福をしてくださるまで放しません。」
ヤコブは御使いに祝福を要求しました。

ヤコブは御使いに勝ったのでしょうか。確かに御使いもいいます。

「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(29)

そう、ヤコブは確かに、組み討ちでは御使いに勝ったのです。しかし、そこでヤコブが知らされたことは、真の勝利者は「神」だということでした。なぜなら「イスラエル」という名前は、「神は闘われる」「神は支配される」という意味だからです。

そうだ。私は神に支配されている。自分が今まで闘ってきた不安を、神が闘っておられたのだ。

このことを知らされたヤコブは、もう隊列の一番後ろから行く必要が無くなりました。先頭を行ったのです。(33:3)そして、平和のうちに兄との再会し、和解を果たしました。

わたしたちのうちにある不安、恐れ、疑いは、わたしたちに戦いを挑んできます。相手を疑う心、怖れる心が、不安を呼び、そこから逃れるために相手を打ち砕こうとします。しかし、わたしたちが本当に闘う相手は、わたしたちの中にある疑い、恐れ、不安ではないでしょうか。これらのものと闘う主イエス・キリストを知ったときに、わたしたちはひとりぼっちで疑う心から解放されます。怖れる心から解き放たれます。不安になるよりも、人と平和に歩む道を求めるようになるのです。

イスラエル。このすばらしい名前を持つ国で、残念なことに、今も血が流されています。そこに住む多くの人々は、真の平和を願い、力による解決よりも、話し合いによる和解を求めています。ただ、力が余りに強いので、その歩みはなかなか前に進みません。しかし、何よりもこのことを悲しみ、涙を流しつつ、闘って折られる神がいることを信じて、諦めないで祈りたいと思います。

一日も早く、この地上に真の平和がなりますように。

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2006.05.29

なぜ、身を隠すのか

彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記 / 3章 10節)

創世記第3章は、アダムとエバの失楽園の物語です。人間が犯した最初の罪。
私達は良く、こういう話を聞くと思います。「ここで、何が生けなかったのか。それは、アダムもエバも、自分のしたことを正直に神の前に謝罪するのではなく、責任転嫁をしたことだ。」ううん。そうとも言えますね。そこで、ちょっと考えてみましょう。
彼らが犯した罪は、神の戒めを破ったことが最初です。すなわち、園の中央にある善悪の知識の木からは実を取って食べてはならないと言われたいた。これを蛇の唆しによって破り食べてしまったのです。もちろん、そのような類の実ですから、食べたアダムもエバも、何が悪いことなのかはよく分かっていたはずです。では、悪いことを分かっていたのに、なぜ、神の御前でそれを告白することができなかったのでしょうか。
アダムは言っています。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。」
善悪を知るようになったために、アダムは神様の絶対的な正しさと、塵芥にすぎない人間との差をはっきりと知ることになりました。それは恐れに繋がりました。義の神の前で、どうして作られたものにすぎない人間が立つことができるのか。
この恐ろしさを回避するために、アダムは身を隠し、そして言い逃れるために言い訳をしたのです。自分の知恵、自分の力でどうにかして、この恐ろしさから逃れられないかと考えたのです。
私達も、罪の問題を考える時、しばしば、神の御前での絶望を考えることがあると思うのです。しかし、しかし、ここが大切です。神様は、アダムとエバから始まる人間の歴史に介入してくださり、救いの道を開かれているのです。そこを忘れてはなりません。
私達は、神様の義の前で、自らの罪をはっきりと知ることができます。しかし、罪にうちひしがれてしまうのではなく、しかも、怖れることなく、その義なる神様の御前にちゃんと出てひれ伏すことができるのです。なぜでしょうか。一人ではないからです。私達の救い主主イエスが、私たちのかたわらに立ち、取りなしてくださると信じるからです。私達は、自分の知恵に頼るような言い訳をしなくていいのです。

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2005.06.12

信じる

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。( 創世記 / 15章 6節)
 kobito_midori.gifアブラムは神様のみ言葉に従って、故郷を離れて、神様の示される地に向かっていました。今日のみ言葉はその途中の出来事です。
 アブラムには子どもがいませんでした。跡を継ぐものがいないのです。しかし、神様は約束されておられました。あなたからでたものが、あなたの跡を継ぐ。そして、その子孫は天の星のように数え切れないにようになるであろう、と。アブラムはそれを信じ、神様はそれをアブラムの義、正しさと認められたのです。
 良くわたしたちは言われます。「宗教なんて信じるから、大切なものが見えなくなるんだ。宗教はくだらないものだ。」アブラムは只、やみくもに神様を信じたのでしょうか。 実は違うのです。創世記に記されているアブラムの物語を読んでみましょう。いかに彼が悩み、いかに彼が策を講じて危機を回避しようとしたか、いかに彼が優柔不断であったか。跡継ぎの問題もそうです。アブラムは何度、神様の御前で自分から生まれるものではなく、跡を継ぐものは○○だと言ったのでしょうか。
 よくよく、アブラムの物語を読んでみましょう。彼は、そういいながらも、つまずきながらも、神様に義と認められたものでした。それは、いつも神様の方を向いていたからです。神様に向かっていたからこそ、むしろ正直に、自分の跡を継ぐものは○○です、とも言えたし、迷っていて策を講じても、それがなんの役にも立たなかった事を知ったはずなのです。なによりも、そのようなアブラムに、神様は繰り返し、繰り返し、神様が約束されたことを語ります。その言葉を聞くたびに、彼は姿勢を正し、決意を新たにしたのではないでしょうか。
 わたしたちの信じている神様は、義を通されます。同時に、わたしたちを義に導かれる方でもあるのです。忍耐して、繰り返し、繰り返し、神様の側からわたしたちに働きかけておられるのです。

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2004.08.01

どこにいるのか

主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」(創世記 / 3章 9節)

kobito_neru.gif最初につくられた人間、アダムとエバが、神様が食べることを禁じていた「善悪を知る木の実」を食べてしまいました。全知全能の神様は、すでにそのことを御存知のはずです。が、あえて、神様はアダムに問われたのです。「どこにいるのか」と。
アダムとエバは神様が園の中を歩かれる音を聞いて、主なる神の顔をさけて、園の木の間に隠れた(8節)とかかれています。アダムは神様の前に出て、神様と顔と顔を合わせてみることが出来なくなってしまったのです。神様の前に自らの罪を告白し、ひれ伏すことが出来なくなってしまったのです。
全ての人間の罪は、このアダムから始まったと言われています。神様の前にキチンと立って、神様を仰ぎ見ることが出来なくなってしまったのです。
しかし、神様はそのようなわたしたち、一人一人を、アダム同様に訪ねてくださっているのです。「あなたは、どこにいるのか」と。
わたしたちの主イエス・キリストが十字架の死を通してわたしたちに示されたのは、そのように失われたわたしたちを、どんなにしても取り戻そうとされる「愛」でした。
福音書にあちこちに記されているように、主は今もなお、わたしたち一人一人をだすねてくださっているのです。アダムによって入り込んだ罪を、主イエスはぬぐってくださったのです。「あなたは、どこにいるのか」今も、主イエスは失われた人々を求めて訪ね歩いておられます。主なる神様のもとに立ち返れと。
日曜日、わたしたちキリスト者は教会に行き、礼拝を献げます。正確に言うと、わたしたちが教会に行くのではないのです。主イエスがわたしたちを礼拝へと招いてくださっているのです。わたしたちは神様の前にきちんと立ち、神様を仰ぎ見て、そのみことばを聴き、讃美の歌を響かせるのです。

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