ヨハネの手紙一

2004.11.07

死から命へ

わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。(ヨハネの手紙一 / 3章 14節)
kobito_aka.gif「わたしたちは、死から命へ移った」手紙の著者はそう記します。死ぬよりほかない、罪の中にあった私を命へと移したのは、主イエスキリストの十字架の死と復活です。 「兄弟を愛すること」それは、主イエスキリストが、最後の晩餐の席でわたしたちにお示しになったことです。主自らが身を低くされて、弟子たちの足を洗われた時、「今後、あなたはこのように互いに使え合い、愛し合うように」と言われたのです。

普段の生活の中で、人に躓くことが多くあります。躓きを与えた人をにくく思うことがあります。自分に躓くことがあります。自分自身がいやになります。人も自分も呪ってしまうことがあります。ああ、なんとわたしたちは罪深いのかと嘆くのです。
しかし、嘆きの中にとどまることを主は望んでおられません。
「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。」
そうです、主を信じた時、罪を悔い改めて洗礼を受けた時、わたしたちは死から命へと移されたのです。この恵みを感謝することが一歩を踏み出しましょう。主に感謝する歩みは、わたしたちを兄弟を憎むのではなく、愛する者に変えていきます。誰一人として、死にとどまることを神は望んでおられません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.04

実現する神の愛

しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。(ヨハネの手紙一 / 2章 5節)
kobito_ao.gif「神の言葉を守るなら…」わたしたちが神の言葉を守るならばその人のうちには神の愛が実現するとヨハネの手紙は告げています。しかし、「神の言葉を守る」ということは、わたしたちに出来ることなのでしょうか。 聖書の中の主イエスの言葉にふれるたびに「隣人を愛しなさい」「敵をゆるしてやりなさい」…。「そんなことをいっても、私にはそんなことは出来ない」ということがしばしばだ、それがわたしたちの現実だと思うのです。 では、信仰は建前であって、わたしたちの実生活は現実なのでしょうか。それとも、わたしたちが「神の言葉を守り得ない」から、この世の中に多くの悲しい出来事が起き、神の愛が実現し得ないのでしょうか。 このように考えるとき、わたしたちは大切なことを一つ忘れていると思うのです。わたしたち人間は神のつくられた者であって、神様ではないということ。わたしたちは神様のように完全な者ではなく、不完全な者であること。 不完全なもの故に、神の言葉を守ることが不可能であるならば、この手紙の著者はなぜこのようなことを書いたのでしょうか。1節から読んでいただきたいと思うのです。著者は記しています。
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。 (2節)
私だけではない、わたしたちだけでもない、全世界の罪を償う方、イエス・キリストがわたしたちの傍らにいてくださる。不完全なわたしたちを助けてくださる方がいらっしゃるのです。主に信頼するときに、わたしたちは神の言葉を守ることが出来る者に変えられていきます。神の愛を実現する者に変えられていきます。 今週も胸を貫かれるような悲しい事件がありました。力で平和を勝ち取ろうとする者がいますが、はたして力で平和は勝ち取れるでしょうか。 しかし、悲しい出来事ばかりだと嘆いて、あきらめてしまってはいけないのです。神の愛を神の平和を実現する者になりましょう。主に信頼して、そのことを祈り求めましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.22

未だ、示されていないが…

kobito_rosa.gif

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(ヨハネの手紙一 / 3章 2節)

御子が現れるとき。すなわち、この世の終わり、救いの成就の時にわたしたちはどうなるのか。
わたしたちには、これから起こること、未来を知るすべはありません。主イエスが再び来られるとき、どのようになるかについては聖書も詳しくは記していないのです。こんな事を書くと、がっかりするかもしれませんね。
先日も、某新興宗教団体の方たちがやってきて、いきなり
「神様がいるという証拠を見せてみなさい」
と言われてびっくりしました。なぜ、そのような証拠がなければ信じられないのでしょうか。証拠を見せろと言われても、わたしたちには
「あなたの見ているもの全てがその証拠です。」
としか言いようがありません。
聖書はその点を、はっきりと記しているのです。
「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」
人の気を引くような気休めのいい加減なこと決してを記してはいないのです。ただ、「御子に似たものになる」とのみ記しているのです。
わたしたちには全てが明らかにされている訳ではない。しかし、主イエスキリストの甦りの力にあずかる。それによって御子に似たものとなる、とのみに記されているのです。それはわたしたちが、神につくられたものとして命を与えられたからです。それは、わたしたちが主イエスの甦りの力にすでにとらえられているからです。わたしたちの存在全てが主のみ手の内にあるからです。
ですから、わたしたちは「死」のおそれからも「不安」からも解き放たれて、今日一日をしっかりと生きることが出来るのです。

神様を信じることは神様が存在する証拠を見つけ出すことではありません。主にわたしたちがとらえられていることを固く信じて毎日を誠実に歩むことなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.07

喜びが満ちあふれるために

わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。 (ヨハネの手紙一 / 1章 4節)
kobito_tsuri.gif教会には喜びが満ちあふれている、とよく言われます。本当に、集まる信徒の方はにこにこしているし、楽しい企画もあるし。かつて、カトマンズに行ったときに教会の場所がわからなかったことがあります。彼の地では当時、キリスト教は禁教でしたから看板などあるはずがないのです。しかし、なんとなぁくニコニコ、イソイソ出かけていく人について行ったら教会にたどり着いたということがありました。
ところで私事なのですが、教会に通い始めた頃、キリスト者というのは人をだますに長けているのではないかと思ったことがありました。なぜかというと、当時の私は聖書に苦しめられていたからです。人間は人を憎むことは出来ても、愛することは出来ないのではないか。人を呪うことは出来ても、ゆるすことは出来ないのではないか。実際に危害は加えなくても、ことばや態度で人はいつも他人を傷つけている。そんなわたしたち人間に、聖書の教えていることは実行不可能だ。イエス様は、どうしてそんな実行不可能なことを人間に要求されるのか。そのような教えの中で、どうしてキリスト者はニコニコと楽しく生活していられるのか。

ヨハネの手紙の著者はいうのです。

わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

そう、わたしたち人間の努力だけでは、人間は人を愛することもゆるすことも出来ないのです。しかし、そのようなわたしたちのために主は十字架にかかられた。それはこの私のためであると同時に、私の隣にいる人のためでもあったのです。私に出来ないことを、主はしてくださっている。ならば、その主に信頼して歩んでみよう。これが私が洗礼を受けた理由です。
それから23年も経ちました。ヨハネの手紙の著者が言うのと同じように、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるために、こうしてメッセージを送り続けているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)