聖霊の助けにより
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 (コリントの信徒への手紙一 / 12章 3節)
多くの教会では、礼拝の中で、三要文(十戒、主の祈り、使徒信条)の全てかそのうちのどれかを用いている。
十戒。往年の映画スター、チャールトン・ヘストン主演の映画として、記憶にとどめている人も多いと思うが、聖書では出エジプト記20章に登場する。モーセによってエジプトから導き出された民の民、イスラエルに対して、神が与えた十の言葉、戒めのこと。
主の祈り。これは、新約聖書マタイによる福音書とルカによる福音書の中に記されている。主イエスが、弟子たちに「このように祈りなさい」と示した祈りのお手本。教会では、礼拝の他、いろいろな集会においても一緒にいるのことが多い。
こう見てくると、十戒、主の祈りは、神が私たち人間に与えた言葉である。が、信仰告白は、と考えると、これは、人間が作ったものともいえる。しかし、教会がどういう信仰理解にたっているかを明確に示したもので、単なる教会の声明文のようなものではない。
私が出席している教会では、礼拝の中で使徒信条を告白している。そう、教会の信仰告白としてみんなでその文言を口にするのだ。最初は、書かれている紙を見て言うことが多かったが、次第に暗記し、見なくてもスラスラ言えるようになった。そのときに、はっとさせられたのが、今日の御言葉である。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
ドイツに滞在していた友人が、現地で子供に幼児洗礼を授けて貰った。そのときに、誓いの言葉をこう言ったという。
「誓います。神の助けによって。」
「神の助けによって。」そう、聖霊の助けを求めつつ、この子に洗礼が授けられることをのぞみ、その子が教会の子供として育ち、そのための養育のつとめをなしていくことを誓うのである。これは洗礼の時だけに限らない。結婚式の誓いの時も、教会役員の任職式の時も、同じ誓いの言葉が述べられた。
聖霊は、神から送られた、私たちの助けてである。聖書には、この聖霊は、私たちの苦しみ、悲しみを最も深いところで知り、私たちに必要なものを与え、助けると記している。この力強い味方を、私たちは、神に祈り求めることが許されているのである。
聖霊の働きは、私たちに見える形で、あるいは見えない形で現れ、働いている。それを「気休めだ」という人がいるなら、言わせておけばいい。信仰者の笑顔、そして、悲しんでいる人の傍らに立ち続ける力、空しいと思われるような努力をも続ける忍耐を与えて下さるのは、まさに聖霊の助けがあるからだ。その一つ一つを信仰者は数えることが出来る。これこそが、主イエスを信じる信仰の力と、胸を張って言うことが出来るから。
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