心と体

2006.12.21

滅びる者は一人もなく

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 / 3章 16節)

「神がその独り子をお与えになった。」これがクリスマスの出来事です。
一般にクリスマスと言えば、イエス・キリストの誕生日と知られているのですが、わたしたちはそれをわたしたちの誕生日のように「おめでとう」と祝うのではありません。
神のひとり子が肉を取ってこの世に来られた。それが、その御子を信じることによって全ての人が罪から救われるためであること。この喜びの出来事、奇跡をわたしたちは自分の身に起こったことであると信じて受け入れるのです。
 クリスマスには教会でも様々な行事があります。教会学校の子どもたちが降誕劇を演じ、24日にはろうそくの灯火のもとで礼拝をする教会も多いと思います。子どもたちのかわいい演技を楽しみ、ろうそくの美しい雰囲気に酔いしれるかもしれません。
 しかし、決して忘れてはいけないのです。「神がその独り子をお与えになった。」これがクリスマスの出来事であると。それは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であり、神様はそれほどまでにこの世を愛されたのだということを。この罪の世を呪うのではなく、愛されていることを。

2004年12月18日に公開したものの再公開です。

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2005.03.26

主イエスと共に

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。(ルカによる福音書 / 24章 15節)
 kobito_tsuri.gif主の復活のを読んでいると、そこにたくさんの「信じられずにいるもの」たちの姿を目にします。主が復活された。確かに、そう簡単に信じられない出来事です。主イエスは、主は、そのようなものたち一人一人の所を、本当に丁寧にたずねられました。
 今週のみ言葉は、エマオに向かう弟子たちに復活の主が顕れた記事です。この弟子たちは、絶望のどん底にいたに違いありません。あれこれと論じ合いながらも、エルサレムから離れてエマオに向かっていたのです。主イエスに付き従っていた時、彼らの心は燃えていたに違いありません。それが、十字架の死を目撃して、すっかり冷えてしまったのです。絶望している二人に、イエスはいきなりあらわれず、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」とあります。そして、主自らが御言葉を解き明かし、ご自身を示されたのでした。この物語の結末は、どうぞ、聖書を読んでください。本当に心が燃えるような記事です。
 ところで、わたしたちについても、このエマオに向かう旅人同様の経験をしているのだと思うのです。主イエスを信じられない方たち。いや、前は信じていたけれど、何かに躓いて信じられなくなってしまった方たち。実は、主自らが、ずっとあなた達と共に歩み、あなたの心と目を開く時を待っておられるのです。主は信じられないわたしたちと共に歩み、ご自身の方から見ずらかをお示しになります。イエス御自身が近づいて来られるのです。
 イースター、おめでとう。この言葉と共に、多くの方の心と目が開かれ、復活の主の恵みにあずかることができますように。

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2005.03.19

墓に納める

遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。(ルカによる福音書 / 23章 53節
 kobito_neru.gif主イエスは十字架にかかり、死なれました。そして、人々の手によって墓に納められたと記されています。死を完全に死なれたと言うことです。
 「死」は、わたしたちにとって怖いものの一つです。死んでしまったらどうなるのかを知っている人はいないからです。得体の知れない世界がそこにあるからからもしれません。その「死」を主イエスは死なれたのです。
 わたしたちが持っている信仰告白の中に「使徒信条」という文章があります。その中に「…十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に降り、3日目に死人のうちより甦り…」という文言があります。主イエスは死んで葬られ、黄泉にまで降られたと言うことです。ということは、わたしたちが「得体の知れない知らない世界」と思っている「死」は、すでに主によって知られていると言うことになります。主イエスを信じることによって、わたしたちは「死」を怖れることなく、今を生きることができるのです。
 最近は、残念なことに集団で自らの命を絶ってしまう方々のニュースをよく聞きます。一人ならば怖いが、何人か集まって一緒に死ねば怖くないのでしょうか。しかし、何故、自らの命を絶つのでしょう。今がいやになったからでしょうか。今の苦しみから逃れるために「死」を選ぶのでしょうか。
 主イエスが、わたしたちの罪を負って完全にしなれ、黄泉にまで降られたことは、「死を怖れなくていい」事にとどまらないのです。主はそこから復活されます。死人の中から甦られるのです。わたしたちも、その主とともに罪に死に、死んだも同然の中から新しい人へと復活するのです。主イエスの「死」はわたしたちが自ら「死」を選ぶのではなく「生」を選ぶためなのです。

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2005.03.07

この方は何も悪いことをしていない

我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。(ルカによる福音書 / 23章 41節 )
kobito_rosa.gif主イエスが十字架につけられた時、同時に二人の犯罪人が十字架にかかったと聖書に記されています。ルカによる福音書では、そのうちの一人はイエスを呪い、他の一人はそれをたしなめたと伝えています。
 自分も悪いことをした。そして、十字架という死刑に今処せられている。もう、全てが終わりだ。どうにでもなってしまえ…。イエスと共に十字架にかけられた人の心の内を思うと、自暴自棄になっていたとも考えられます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 (39節)その言葉の裏には、「どうせ、そんなことはできないだろう。 おまえも十字架につけられるんだ。死刑だ。何が神の子だ。何がメシアだ。」という言葉が聞こえてくるようです。
 わたしたちは、この記事を読むたびにはっとさせられます。果たして、主イエスを呪ったこのせりふは悪事を重ね、その報いのために死刑に処せられる犯罪人が語ったせりふでしょうか。いや、わたしたちも、その同じ呪いを口にすることはないでしょうか。「神様なんているんだろうか。いたら、わたしはこんなに苦しさを味わわなくていいのではないか。(神様なんかいるもんか)」「何故、戦争があるんだろう。何故、災害で人が多く死ぬんだろう。何故、神様は人間に悲しさを与えられるのか。(神様なんかいるもんか)」「神様を信じていたって、一体何が変わると言うんだ。信仰を持ったって、何も変わらないじゃないか。(神様には何もできないじゃないか。)」
 もう一人の犯罪人は、呪いを吐くものをたしなめて言いました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」福音書記者の意図はここにあります。「この方は何も悪いことをしていない。」何も悪いことをしていない方が、罪を犯した者として、しかも死刑に処せられている。わたしたちの罪の贖いは、このように、全く罪を犯さない者の血を要求するほどに重いものなのです。しかも、十字架-木の上に挙げられると言うことは、神からも見捨てられる、神の呪いを受けるものという意味があるのです。主イエスは、わたしたちの罪を負い、人間の呪いを負い、本来はわたしたちが受けるべき神様の呪いをも引き受けて十字架にかかられたのです。本来わたしたちが受ける当然の報いを、主が代わって担ってしまわれたのです。
 主のご受難の物語はまだ終わりではありません。十字架の死で終わるのではないのです。さらに先へと続くのです。救済の物語はさらに先へと進んでいくのです。

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2005.02.28

砕かれる存在

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。(ルカによる福音書 / 22章 61節)
kobito_bloon.gif 「熱血漢、ペトロ」彼のことをそう呼んでもいいかもしれません。主に招かれた時から、全身全霊を注いでイエスに付き従っていたペトロでした。ペトロの鶏事件についても、主イエスがあらかじめ預言された時、「そんなことは、決してない」と本当に心から否定したでしょう。だから、イエスが逮捕され、連行された時も後先のことを考えないでついて行ったのだと思うのです。
 ペトロは一つの経験をするのです。イエスが預言されたとおりに、鶏が鳴く前に3度もイエスのことを「知らない」と言ったのです。おそらく、ただ一所懸命に、捕らえられたイエスについて行って、あまり考えないで「知らない」と言ってしまったのではないでしょうか。
 鶏が朝を告げて鳴くのは、まだ日も昇らない暗い時です。まだ闇が覆っている時間です。やがて訪れる朝の光を予告するかのように鶏は高らからに鳴くのですが、まだ闇の時間です。31-34節で、イエスがペトロの裏切りを予告された時も、決してペトロの言葉に嘘はなかったのです。逮捕されたイエスの後をついて行ったのも、主がどうなるか見届けるためでした。ペトロの心にあったのは、主イエスの後をどこまでもついて行こうという固い決心でした。そう、固い決心なのです。しかし、それはペトロの固い決心でした。主が共にいてくださることを含めての決心ではなかったのです。
 主のご受難の記事をもう一度最初から、丁寧に読み直してみましょう。主は逮捕される前から、十字架にかかられる前から、わたしたちが主を裏切ることを知っておられるのです。わたしたちの決意、わたしたちの信仰がいかに弱く、もろいものであるかを知っているのです。わたしたちが主のものにならなければ、わたしたち自身だけでは何もできないことを知っておられるのです。
 闇がまだ覆っている世界の中で、ペトロは主を裏切りました。主に見つめられ、主の言葉を思い出したペトロは、そこで泣き崩れました。どんなに悔いても、悔い切れない自分の罪の姿を見たからです。ペトロ自身の固い決心、しかし、その決心はあくまでもペトロの決心でした。それを主イエスは粉々に砕いてしまわれたのです。ここで忘れてはならないのは、ペトロをはじめとしたわたしたち全てのために主イエス自らが「信仰がなくならないように」と祈っておられることです。砕かれてしまったわたしたちの傲慢の代わりに、主イエスは真の信仰を注いでくださるのです。
 一番鶏はすでに鳴いています。やがて朝が来ます。この裏切り事件はそのような時間帯に起きた出来事です。ペトロは復活の主に逢うまで、もうしばらくの間、時を待たなくてはなりません。

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2005.02.19

あなたがたは皆わたしにつまずく

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。(マタイによる福音書 / 26章 31節)
 kobito_tsuri.gifマタイによる福音書の記者は、イエスがゲツセマネで祈られる前に、このように弟子たちに語ったと記しています。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と語られたのです。
 教会で良く聞く言葉の一つは、「わたしは○○につまずいた。」というものです。同じ教会で過ごしている信徒につまずいた。○○さんにつまずいた。教会の長老、役員につまずいた。牧師につまずいた。神様につまずいた。こうしてみると、どれもゆゆしき問題です。このようなものにつまずかない信仰生活をしたいと誰もが考えます。
 ところが、聖書には先にあったように、すでに主イエスが弟子たちに、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」といわれているのです。主イエスの生の声を聞き、主から直接教えを受けた弟子たちが、事もあろうに、主イエスご自身につまずく、と書かれているのです。
 改めて考えてみると、つまずかずに信仰生活を全うしたという人はいるのでしょうか。大なり小なり、わたしたちは何かにつまずいているのです。つまずいて転ぶ経験をしているのではないでしょうか。
 小さな子どもを見ているとよく分かるのです。歩きはじめの子どもはよく転びます。しかし、転ぶことを畏れずに歩きます。上手に歩けるようになっていきます。転んだ時は、大きな声で泣きます。助け起こしてくれるお父さん、お母さんを、大きな声で泣いて呼ぶのです。それでいいのです。信仰のつまずきも、転んでそこで萎えて倒れてしまうのではなく、助け起こしてくださる方を大いに泣いて呼べばいいのです。つまずいている人を見たら、助け起こしてあげればいいのです。
 「あなたがたは皆わたしにつまずく。」わたしたちがいろいろなものにつまずいてしまうこと、いや、すでに主イエスにさえつまずいてしまうことを主自らが承知しておられるのです。素直になりましょう。転んでも助け起こしてくださる主の前に、直くありたいと思うのです。

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2005.02.12

父よ、御心ならば

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書 / 22章 42節)
kobito_neru.gifこの記事は言うまでもなく、イエスが捕らえられる直前、オリーブ山での祈りの言葉です。」キリスト教の信仰を求めて求道者会などに出ると、キリスト者の祈りの一つのお手本としてこの言葉を聞きます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。自分の想い出はなく、神様の御心を直く受け入れる。たとえそれが、わたしたちにとっては厳しいものであっても、御心を優先させる。そのような祈りをすることを教えられるのです。  しかし、イエス様の祈りの言葉をもう一度読んでみましょう。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
 イエス様は正直に「。」とまず、祈っておられるのです。神の子である方が、このような祈りをされていることに驚きます。そして思うのです。神様は、このわたしの苦難、このわたしの苦しみ、このわたしの悲しみを全て知っておられる。だからこそ、わたしは、その神様に信頼して「この杯をわたしから取りのけてください。」と正直に申し上げることができる。そして、わたしの全存在を神様のみ手に預けてしまっているからこそ、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈ることができるのではないかと。 主イエスは、人の手に渡される直前に、苦難の中にあるわたしたちに、このようにお手本を示してくださったのです。

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2005.02.11

命の糧を!

 昨年末にインド洋沿岸を襲った地震と大津波。ニュースで報道される機会は少なくなりましたが、現地の復興作業はかなりの時間、人材、物資、そして経済面での支えを必要としています。雨露をしのぐ家、明日の活力を生むための食料も必要ですが、傷ついた心のケアも大事。
 キリスト教放送局FEBCではパンダ・アチェにFM曲を開き、様々な情報や慰めの言葉を放送しているそうです。
以下は2月10日付で載せられた最新情報です。

◆2月10日
バンダ・アチェの106.8FM放送から、毎日10:00-13:00と 16:00-21:00の8時間放送が開始されました。
番組内容は、ニュース、地域の情報(当局諸窓口がどこにあり、何をしている)生活情報(物々交換、売りたい/買いたい、上げたいなど)、医師による健康番組、尋ね人コーナー、教育番組(学校教師による)、こども読み聴かせ番組、心のケアーと相談番組、みんなの広場(誰でも話したい人の為)。
当面の課題は番組の充実と技術者、語り手の人材確保です。
どうぞ、これらの番組が人々の心を慰め、励まし、必要を満たすものとなりますよう、そこで働くスタッフのためにお祈り下さい。まだ、予算が満たされていませんので、そのためにお祈り下さい。
日本FEBCのHPより)

 協力してくださる方があれば嬉しいです。clover.gif
詳しくは日本FEBCのHPをご覧ください。

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2005.02.05

あなたのために祈った

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカによる福音書 / 22章 32節 )
kobito_lila.gif「シモン・ペトロよ。もうすぐ、あなたはサタンに試みられる。」そうともとれるような緊張する場面です。主イエスは、もうすぐ十字架にかかられる。全てのものが、主の十字架の前に絶望を味わう。そのときがもう間近に迫っている。そのような時に、主イエスがペトロに語られた言葉です。
「信仰がなくならないように。」ペトロはこの後、主イエスが言われたとおりに、「あの男の事は知らない。」と3度も主イエスを否むのです。ペトロばかりではないのです。イエスに付き従っていたもの全員が、主の十字架の前にイエスを信じられなくなったのです。絶望したのです。
しかし、主はすでにそれに先だって言われました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」わたしたちは自分の不信仰を安易に認めてはいないでしょうか。わたしたちの不信仰をすでに主はご存知なのです。不信仰のままであっていいはずはありません。しかし、不信仰を嘆くだけでよいのでしょうか。このような不信仰のわたしたちをも、主はすでに祈り、支えていてくださっている。そのことに確信をおいて、主を見上げましょう。
身の回りに起こる不幸な事件、天変地異、争い。全てがわたしたちを絶望させ、神様の存在を不確かにさせます。しかし、わたしたちはそのような中で、嘆きの中に身を沈めて、神様を呪い、悪魔の唆しに乗るのではなく、わたしたちのために祈ってくださる主を見上げましょう。そうすれば、わたしたちは立ち直ることができます。そればかりではなく、兄弟を力づけることができるのです。

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2005.01.29

霊的な歌によって語る

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソの信徒への手紙 / 5章 19節) 
kobito_aka.gifわたしたちは普段、いろいろな人と話をします。議論をすることもあります。時にはそれが喧嘩になることもあります。悲しみのうちにある人に励ましのことばを書ける時もあけば、口汚く罵ってしまうこともあるでしょう。みんな自分の口で行っていることです。 手紙の著者は信仰を持つ人の生活について勧めをしています。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」なさいと勧めています。特別なことを言っているのではありません。わたしたちが日常、話す言葉を神様のみ言葉によって整えなさいと言っているのです。整えられた言葉は、ごく日常の言葉です。では、どのように整えたらいいのでしょうか。
聖書を音読することも一つの手かもしれません。最近はやっている、写すこと、写経ならぬ「写聖書」もいいかもしれません。
 個人的な意見としては、特に詩編の音読をお勧めします。新共同訳聖書の詩編は、特に、礼拝の中で購読されることを念頭に置いて訳されていますから、読みやすくなりました。
 神を讃える言葉を聖書から学ぶ。そのことは、わたしたちの日常のごく、ごく、普通の言葉をも整えていくのです。

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2005.01.15

あなたの神、主は共にいる

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア記 / 1章 9節)
 kobito_ao.gifイスラエルの民をエジプトから導き出したモーセは、神様が示された約束の地にはいることはできませんでした。まだ、たびの半ばであるにもかかわらず、イスラエルの民を導くためにモーセの後継者としてヨシュアが選ばれたのです。
 神様の約束されていること、神様が与えてくださるという土地。神様さえ信じていけば、絶対に大丈夫だ。しかし・・・。 みな、わかっているのです。本当に大丈夫だと。しかし・・・。しかし、わたしたちはいつも「しかし・・・」をくりかえしてつぶやくのではないでしょうか。その呟きの裏には、本音と建前論で、自分を正当化しようというカラクリが潜んでいます。
 ヨシュア記第1章の中で、神様は繰り返し、繰り返し、言われるのです。「私はあなたと共にいる。強く雄々しくあれ。」と。わたしたちの周りには、本当にわたしたちを畏れさせ、うろたえさせ、不安にさせることばかりが取り巻いています。だからこそ、そのようなものに心奪われることなく、「雄々しくあれ」と言われる神を仰ぎ見ようではありませんか。うつむくのではなく、目を上げましょう。目を上げれば、きっとわたしたちの行くべき道が見えてくるのですから。

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2004.12.29

その出来事を見に行こう

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 (ルカによる福音書 / 2章 15節 )
kobito_midori.gifキリスト教の福音は、ただ待っているだけでは来ないのです。こんな事を書くとびっくりする方がいるかもしれません。
クリスマスに語られる野の羊飼いの物語。彼らは夜通し羊の番をしていたと記されています。オオカミが羊たちを襲うかもしれないからです。ですから、彼らはその場を離れる訳にはいかなかったはずです。しかし、天使たちが顕れ救い主の誕生を告げると、
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
と話し合い、羊飼いたちは主イエスを探しにベツレヘムの町に向かったのです。羊を一緒に連れて行ったのか、野に置いていたのかについては、詳しく記されていません。聖書はただ、彼らが主イエスを探し当て、神を賛美しながらまた野に戻っていったとだけ記しています。そうです。羊飼いたちは、み使いの言葉の通りのその出来事を見に行ったのです。
神様はわたしたちを神様の姿に似せてお作りなりました。神様は一方的な力でわたしたちを支配されるのですが、また同時に、わたしたちの応答を要求されるのです。
神様に対して「アーメン、その通りです。」と言うことを求めておられるのです。キリスト教の福音は、ただ、待っているだけでは来ないのです。祈り求めること、神様のみ前に行くことが求められているのです。
様々な事情で教会に来ることのできない方たちがいます。牧師に相談してみましょう。きっと何か手だてが見つかるはずです。
様々な理由をつけて教会に来ない人がいます。あきらめないで礼拝に出席することを祈り求めてください。1年に1日でもいい、神様にその1日を献げるつもりで礼拝に出席することを祈って欲しいと思います。
皆さんを主ご自身が招いておられるのですから。

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2004.12.11

わたしの魂は主をあがめ

「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカによる福音書 / 1章 47節)
kobito_bloon.gifマグニフイカート。ルカによる福音書第1章47-54節に記されている「マリアの賛歌」の冒頭の言葉です。「私は主を崇める」をラテン語で言うとこうなるのです。英語で言えばmagnify。大きくするという意味です。英語でも古い使われ方では「褒め称える」という意味があるのです。
エリサベトの所を訪問したマリアは、エリサベトの挨拶を受けました。その挨拶に響き返すように、マリアの賛歌は歌われます。神様の全能、神様のご支配を讃えて歌うのです。マリアは神様を讃えて歌います。決して自分のことを誇らないのです。
わたしたちは、うっかりすると、神様から大きな恵みをいただいた時に、それがまるで自分の信仰の努力の結果であるかのように思うことがあるのです。ただ神様の自由な御心によって、恵みを得たにすぎないのに、あたかも自分の信仰深さの故であったとか、冷静の深さの故であったかのように思うことがあるのです。いや、反対のことの方が多いかもしれません。自分が恵みを得ないのは、あるいは祈りが聞かれないのは自分の信仰の足りなさのためであると、嘆くことは多いのではないでしょうか。
しかし、そうではない。神様は、ご自身の全く自由に御心によって全てをなさるのです。取るに足らないものを取り上げ、富むものを低められる。しかも、全てのことについて良い方向にとなさるのです。 ある神学者は記しています。「いったい、この世の中で誰が飢えているものにパンを与えるのか。病んでいる人をいやすのか。正義を行うのか。しかし、マリアは知っていた。全て神様がされる。救いの日には全てが成就する。だから、ここでマリアは神を讃えて歌うのだ。」と。
わたしたちは、神様に捕らえられていなければ、どんなに良いことをしても空しく、唇には呟きばかりがのぼるのです。しかし、神様に捕らえられたものには、マリアのように神を讃える喜びの言葉が備えられるのです。

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2004.12.05

神を讃える口

すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(ルカによる福音書 / 1章 64節)
kobito_tsuri.gif天使ガブリエルのお告げに対して、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」(18節)と、ザカリアはしるしを求めました。天使のお告げはザカリアにとっては呪いではなく、喜びのお告げでありました。恵みのお告げであったのです。その恵みに対して、受け入れることをせずに、ザカリアはしるしを求めたのです。
「証拠を見せてくれ。その証拠が確かならば、信じよう。」
あることが信じられない時に、わたしたちが口にする言葉です。その口を、天使ガブリエルは閉じたのです。神様のみ前にあってつぶやく口を閉じたのです。人間の哀れな姿の一面がここにあります。
時が満ちて、エリサベトが子供を産むまでの期間、ザカリアはどのような思いで過ごしたのでしょうか。 しかし、奇跡が起きました。人々が生まれてきた子供の名をたずねた時に、ザカリアはガブリエルの伝えたとおりの名「ヨハネ」を記しました。神の意志に従ったのです。そのとたんに、ザカリアの口が開けられ、舌がほどかれました。口から出てきたのは、神様を賛美する言葉です。呟きではないのです。
 今年も、わたしたちはクリスマスの季節を迎えています。2本目のろうそくをともしてアドベントを祝いました。繰り返し心に刻みましょう。
 クリスマスの出来事は、信じる人のところで起きた物語ではありません。神のみ言葉を信じないわたしたち人間のただ中に起きた出来事です。神様の力は、つぶやく口を閉ざし、神を賛美する言葉がおなじ口から出るようにしてくださったのです。

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2004.11.29

罪人のただ中に

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書 / 2章 2節)

kobito_neru.gif今年も主イエス・キリストのご降誕を待ち望む季節に入りました。教会学校でもクリスマスページェントの練習が始まっているところが多くあると思います。28日の主の日に訪れた教会でも、博士たちの歌が響いていました。
毎年思うのです。当方の博士たちは、いってみれば異邦の民。しかも、占星術の学者たちであったと言います。神の言葉ではなく、星占いのよってこれから起こることを知る人たちであったのです。その博士たちが、星に導かれてやってくる。ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに長い道のりをやってくるのです。
一方、イスエラルの人たちはどうであったでしょう。彼らは預言者の言葉、イスラエルの民を救うメシアがやって来るという知らせを信じ、それを待ち望んでいたはずです。
神様のなさりようはなんと不思議で、なんとわたしたちの思いを超えていることか。
毎年思うのです。わたしたちもまた、主イエス・キリストのことを知り、クリスマスを喜びの時として祝うのです。そのことは少しも悪いことではありません。でも、何か足りない。何かがかけている。クリスマスの物語を読むと、そこには自分の思い、自分の期待を前に出す人間の罪の姿があることに気づくのです。あんなにすてきなクリスマスの物語の中に、すでにイエス様を拒んでいる人の姿があるのです。
このことは何を示しているのでしょうか。そう。主イエスは信じるものの所に来たのではありません。主イエスを拒むものの所に来られたのです。すでに、降誕の時から、ご自分が「この男を、十字架につけろ」と叫ぶ人々の真ん中に来られたことを知っておられたのです。ご自分の十字架と復活を通して、そのような罪人たちの目を開き、まことに命に生きる者に変えるために、主はわたしたちの所に来られたのです。
毎年思うのです。アドベントはそのことを深く心に刻む時だと。そして待つだけではなく、主が来られることを祈り求める時であると。

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2004.11.07

死から命へ

わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。(ヨハネの手紙一 / 3章 14節)
kobito_aka.gif「わたしたちは、死から命へ移った」手紙の著者はそう記します。死ぬよりほかない、罪の中にあった私を命へと移したのは、主イエスキリストの十字架の死と復活です。 「兄弟を愛すること」それは、主イエスキリストが、最後の晩餐の席でわたしたちにお示しになったことです。主自らが身を低くされて、弟子たちの足を洗われた時、「今後、あなたはこのように互いに使え合い、愛し合うように」と言われたのです。

普段の生活の中で、人に躓くことが多くあります。躓きを与えた人をにくく思うことがあります。自分に躓くことがあります。自分自身がいやになります。人も自分も呪ってしまうことがあります。ああ、なんとわたしたちは罪深いのかと嘆くのです。
しかし、嘆きの中にとどまることを主は望んでおられません。
「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。」
そうです、主を信じた時、罪を悔い改めて洗礼を受けた時、わたしたちは死から命へと移されたのです。この恵みを感謝することが一歩を踏み出しましょう。主に感謝する歩みは、わたしたちを兄弟を憎むのではなく、愛する者に変えていきます。誰一人として、死にとどまることを神は望んでおられません。

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2004.10.25

誰も誇ることがないように

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。(エフェソの信徒への手紙 / 2章 8-9節)
kobito_midori.gifキリストによる救いは、わたしたちの全く外側からの力、神様の側からの恵みによるものです。
わたしたちはよくこういわれることを耳にします。  「こんなに悪いことが起きたのは、きっとどこかで悪いことをしていたからだ。その報いを受けたのだ。」これを人は「天罰」あるいは「運命」といいます。そんな非科学的なことを思っていないといっている人でも、たとえば何か重い病気になった、事故にあった、災害に巻き込まれたという時に「どうしてこんな目に遭うのだ。私は何も悪いことはしていない。」といった声を聞くと思うのです。
 一方、その反対はこうです。よいことをすれば良い報いを受けられる。わたしたちは自らの幸せ、あるいは人々の幸せを願って、よい行いに励むのです。わたしたちはこういった因果応報の世界の中に、知らず知らずのうちに生きているのではないでしょうか。しかし、果たしてそれでいいのでしょうか。良い報いを受けるためにはよいことをしなければならない、という脅しがその陰に潜んでいるのです。法外なお布施や献金を要求する団体がありますが、その手口がこれです。
 「キリスト教は違います」といいたいところですが、残念ながら教会の中にもこの手の罪は潜んでいるのです。一部の有力な信徒が、教会を我がものにしている教会がない訳ではありません。もっとひどいのは、牧師自身が教会を牧師の教会にしているということ。一所懸命に教会のため、世の中のために奉仕しているといいながら、神様のことを忘れてしまっている人たち。良い報いを自分が受けるために、良い行いに励むことの罪をわきまえる必要があるのです。もし、そのような過ちを犯している人がいたら、わたしたちは神様にその人の罪の赦しを請いつつも、慎重にではありますが、レッドカードを出す勇気と知恵が欲しいと思います。
パウロがエフェソの教会に手紙を書いた背景にも、教会の中に様々な問題があったからなのです。しかし、パウロは主イエス・キリストが何故神でありながらわたしたちと同じ肉を取って、わたしたちの所に来られたかを語り、主イエスの十字架の出来事がわたしたちの救いとなったのかを切々と語るのです。
わたしたちの救いは、神様からの一方的な恵みです。それはわたしたちを因果応報という縄目から解き放つ力です。キリストに救われ、生かされているものは、自分を誇ることをせずに、神を誇る者に変えられるのです。その上でなす、わたしたちの行いは、神様に赦されたもの同士が執り成しあって行う愛の業になるのです。

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2004.10.20

キリストの支配

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。(エフェソの信徒への手紙 / 1章 22節)
kobito_rosa.gif「全てのものをキリストの足もとに従わせた」この言葉をわたしたちはどのように読むでしょうか。
世の中のあらゆる権威、力、支配…、そのようなものをキリストは全部支配されている。キリストこそ唯一の神。平和の神。そのことに間違いはないのですが、このことを自らの政策遂行のために利用している政治家のいることを悲しく思います。
イエス・キリストは何故、この世に肉を取ってこられたのか。キリストの十字架がわたしたちに示しているものは何か。このことをパウロはエフェソの信徒への手紙の冒頭で語っているのです。キリストの受肉、キリストの十字架の死と復活。それはわたしたちを悪魔の縄目から解放するためのものでした。神様のことも、同じように神様に赦されて生かされている隣人のこともないがしろにして、自分中心の生き方をしているわたしたち。いや、わたしたちは自分自身さえも欺いて生きていることさえあるのです。
主イエスはそのようなわたしたちを神様の恵みから引き離すものの支配から救ってくださったのです。わたしたちの心をそそのかすものの権力のもとから取り戻してくださったのです。このことを思う時、主イエスご自身も悪魔の試みを受けられた記事を思い起こします。
パウロはこのようなキリストを神様は教会の頭として建てられたと記しています。そうです。教会はキリストの支配のもとにあるのです。キリストが教会の支配のもとにあるのではないのです。ましてやキリストが人の集団の支配のもとに働かれているのではないのです。
今日、わたしたちはこのことを真剣に考えなくてはならないと思います。真実のキリストの支配を求める時に、隣人との対立ではなく対話が生まれるのではないでしょうか。

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2004.10.12

死からの解放

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。(ヘブライ人への手紙 / 2章 14-15節)
kobito_bloon.gifどの時代の、どのような人も一番恐怖を覚えるのは「死」でしょう。「死」は私を孤独にします。全てのものとの関係を切り離してしまうからです。 わたしたちの主イエスキリストは十字架の死と復活によって、「死」を滅ぼしわたしたちに永遠の命に生きることを約束されたと、言われています。これは決して「霊魂不滅」というような言葉で言われるものではありません。わたしたちは、ともする「霊」と「肉」を切り離して考えてしまうのですが、このような二元論からは主イエスに示された救いのみ業は理解し得ないのではないでしょうか。 ヘブライ人への手紙は、わたしたち人間が血と肉を持っているのと同様に、主イエスもそれらを備えられたと記しています。しかも、その理由は 死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため だというのです。霊と肉を切り離す二元論に立つならば、主の受肉は必要ないのです。しかし、主は肉を備えられた。そのことによって、主イエス自らが肉の滅びを支配されてしまってのです、見るべき方を見るために、命を与えてくださった神様を見あげることが出来るようになるために、主は死を滅ぼされたのです。

わたしたちの復活の信仰は、「死んでもまたどこかで生まれ変わる」というような、ふわふわとした確信のないものではありません。わたしたちは造られたものとして、死んだら土に帰ります。それは絶望の「死」ではありません。孤独の中の「死」ではありません。主イエスがそれらに勝利されわたしたちを解放してくださっているからです。ですから、キリスト者は命を生き生きと生きることが出来るのです。今、このときを、たとえ次の瞬間、地上の命を終えるとしても。

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2004.10.02

神の要求

どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケの信徒への手紙一 / 5章 18節)
kobito_tsuri.gifここに書かれている聖書の詞が好きだという人は結構多いと思います。特に16節-18節の詞を、自分の愛唱聖句としてもっている方は多いでしょう。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
キリスト者の生活とは、なんと幸いなものでしょうか。
 しかし、「どんなことにも感謝しなさい」と言われているにもかかわらず、わたしたちの心の奥底にあるのはある種の不安だとも言えるのです。本当に、どんなことにも感謝できますか。いやな思いをさせられたことに対しても、感謝できますか。危害を加えられたことにも、感謝できますか。自分の最愛の者を失ったときにも、そのことを感謝をもって受け入れられるでしょうか。このようなときにわたしたちの心にわき上がってくるものは、呟き、怒り、悲しみなのです。感謝の心などはいる隙間さえないほどに、あふれてくるくらい心なのです。
 ここで大切なことは、神様は何もしないでわたしたちに出来ないことを望んでおられるのではない、ということです。
これこそ、キリスト・イエスにおいて
と記されているように主イエスに連なる故に、望まれていることなのです。その主イエスキリストは、十字架の上でどのようなことを経験されたでしょうか。主イエスは「神に見捨てられる」という経験をされたのです。それは感謝の心など、全く起きない経験です。「神様、どうして私を見捨てたのですか。」という呟き、怒り、悲しみの経験です。このような経験をされた方が、わたしたちのつぶやく心を、怒りの心を、悲しみの心を知らないはずはないのです。なによりもその悲惨さをご自身の身をもって知っておられるのです。この主により頼むときに、わたしたちは全てのことを感謝することが出来るのです。
 それは、無理をして感謝することではありません。呟き、怒り、悲しみを人に向けるのではなく、そのような心を主の前に正直にさらけ出して、「主よ、このような私をお助けください。」と祈ることから、感謝は始まるのです。

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2004.09.26

今日一日の労苦

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書 / 6章 34節)
kobito_neru.gif主イエスはこのようにいわれました。顧みてみれば、わたしたちは思い悩むことがなんと多いことでしょうか。特に、見えない未来、将来に対する不安はいつもわたしたちを捕らえて放さないと思います。「一寸先は闇」という言葉は、そんな不安をよく表している言葉でしょう。 わたしたちの主はいわれました。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
「わからないことを悩むのはくだらない」というのではないのです。確かな約束、確信があるから主はこういわれるのです。確かな約束。父なる神様がこの私の全てを支配されている、私の全てを知っておられるからです。私にはわからなくても、神様には全てがわかっているのです。その神様に全てをゆだねているので、もう、思い悩むことはないといわれるのです。 では、なぜ、この世に不幸があるのでしょうか。なぜ、不安があるのでしょうか。なぜ、悲惨なことが起こるのでしょうか。これは難しい問だと思います。しかし、わたしたち主を信じて歩く者は「難しい」「神様の理不尽」といって、あきらめることをしないのです。「全てをご存知の神様は、わたしたちの知るところを遙かに超えて、わたしたちに全てが益となるように働いてくださる。」そのように信じることから一歩を始めます。信じることによって前進することができるのです。 不安のうちに何もしないのではなく、今日一日の労苦、一時一時の課題を誠実にこなしていくことを求められているのです。

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2004.09.12

わたしの国は、この世には属していない

kobito_aka.gif

イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハネによる福音書 / 18章 36節)

主イエスは、捕らえられ、総督ピラとのもとで訊問されたときにこのように答えたと、ヨハネによる福音書は記しています。
「わたしの国は、この世には属していない。」
なんと不思議な言葉でしょうか。ピラトをはじめとして多くの者が、この言葉の意味は何かと考えたに違いないと思うのです。
ローマの支配下にあった当時、多くのユダヤ人はナザレのイエスこそ、この世のローマの支配から民族を解放する者と考えていました。ユダヤ人ばかりではなく、ピラトもローマ人もそう考えていたのでしょう。
イエスはここではっきりと言われているのです。「わたしの国は、この世には属していない。」と。
主イエスの指す私の国は神の御国です。神の御国と王として主はわたしたちの所においでになったのです。それはわたしたちをこの世的な縄目から解き放つというのではなく、罪の縄目から解き放つためでした。この世の支配よりも、もっと決定的な、もっと深刻な、そしてどのようにしても絡みついて離れることのない罪の縄目からです。罪の縄目から解放して、わたしたちを神様のもとに取り戻すために、主は来られたのです。
このことを、わたしたちは間違えてはいけないと思うのです。
罪とは何でしょうか。いろいろあります。知らないうちに人を傷つける言葉を発すること。人をそしること。いやそればかりではありません。自分の信仰生活がどんなに熱心な者であるかを正当化する、その横で、人を裁くこともあるのです。
私の知っている方にお医者さんでキリスト者の方が2人あります。そのうちのお一人は、教会の礼拝に来たことがありません。開業医であるその方は、いつ、緊急の連絡が来るかわからない。教会に行っている暇はない。医者であることは神様から与えられたつとめであるといわれるのです。
もう人の方は病院の勤務医でした。そのことはしばしば、礼拝の途中で退席されることがありました。急患のための病院からの呼び出しです。しかし、その先生はいつも誠実に礼拝に来られました。それが、途中で中断されることがあったとしても。
わたしたちにからみつく罪の縄目は、実に巧みに絡んできます。
「わたしの国は、この世には属していない。」
自らの罪を思うとき、この主のお言葉を深く心の中で思ってみたいのです。

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2004.09.04

実現する神の愛

しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。(ヨハネの手紙一 / 2章 5節)
kobito_ao.gif「神の言葉を守るなら…」わたしたちが神の言葉を守るならばその人のうちには神の愛が実現するとヨハネの手紙は告げています。しかし、「神の言葉を守る」ということは、わたしたちに出来ることなのでしょうか。 聖書の中の主イエスの言葉にふれるたびに「隣人を愛しなさい」「敵をゆるしてやりなさい」…。「そんなことをいっても、私にはそんなことは出来ない」ということがしばしばだ、それがわたしたちの現実だと思うのです。 では、信仰は建前であって、わたしたちの実生活は現実なのでしょうか。それとも、わたしたちが「神の言葉を守り得ない」から、この世の中に多くの悲しい出来事が起き、神の愛が実現し得ないのでしょうか。 このように考えるとき、わたしたちは大切なことを一つ忘れていると思うのです。わたしたち人間は神のつくられた者であって、神様ではないということ。わたしたちは神様のように完全な者ではなく、不完全な者であること。 不完全なもの故に、神の言葉を守ることが不可能であるならば、この手紙の著者はなぜこのようなことを書いたのでしょうか。1節から読んでいただきたいと思うのです。著者は記しています。
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。 (2節)
私だけではない、わたしたちだけでもない、全世界の罪を償う方、イエス・キリストがわたしたちの傍らにいてくださる。不完全なわたしたちを助けてくださる方がいらっしゃるのです。主に信頼するときに、わたしたちは神の言葉を守ることが出来る者に変えられていきます。神の愛を実現する者に変えられていきます。 今週も胸を貫かれるような悲しい事件がありました。力で平和を勝ち取ろうとする者がいますが、はたして力で平和は勝ち取れるでしょうか。 しかし、悲しい出来事ばかりだと嘆いて、あきらめてしまってはいけないのです。神の愛を神の平和を実現する者になりましょう。主に信頼して、そのことを祈り求めましょう。

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2004.08.31

密室の祈り

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイによる福音書 / 6章 6節 )

kobito_midori.gif「祈ることに於いても、わたしたちは罪を犯す」
こういう事を聞いたことがあるでしょうか。神様に願い求めること、そのことに於いてもわたしたちは過ちを犯すことがあるというのです。
わたしたちは祈るとき、どのような思いで祈っているでしょうか。「今日は、本当によく祈れた。」という満足感を得るためでしょうか。美しい言葉を用いて、美しい祈りをし、人の心をウルウルとさせたいためでしょうか。
 マタイでは祈りは父なる神に請い求め向かってするということに集中しています。それは、他の人が自分の祈りをどう思うかと言うことを気にするなと言うことだけではありません。自分自身をも注意する必要を説いているのです。
 わたしたちは、神様の前にあっては、祈りの言葉すらも完全な者とは成り得ないのです。ですから、もし、祈ることに満足感を得るとするならば、その祈りは偽善の祈りに成りはしないでしょうか。
 不完全なわたしたちが、神様に聞き届けられる祈りをするならば、主イエスがここで言われるように、父なる神の前にひれ伏し、ひたすらに罪の赦しと救いを請い求め、与えられた恵みに感謝することにつきるのではないでしょうか。
 祈りは難しいことではありません。しかし、わたしたち一人の力では完全な祈りは不可能なのです。ですから、わたしたちは祈ります。「主イエスのみ名によって アーメン」と

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