文化・芸術

2006.06.24

わたしの主、わたしの神よ

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネによる福音書 / 20章 28節)

先日、上野の芸大美術館に、バルラハ展を見に行きました。19世紀から20世紀を生きたドイツの芸術家、エルンスト・バルラハの展示です。バルラハの晩年は、第二次世界大戦のまっただ中でした。ナチスから「頽廃芸術」として批判され、その作品はことごとく撤去されました。

バルラハの作品の一つ「再会(Wiedersehen)」も、「寝間着を着た2匹の猿」と評されました。しかし、この作品は、よみがえりの主イエスとトマスの再会の場面として、現在は紹介されています。主イエスとおぼしき人の手と足には、釘のあとかと思われる小さなくぼみがありました。その人に向かって、トマスが寄りかかっているのです。

この作品をまじまじと見ていて、はっと思ったことがあります。この作品の下敷きがヨハネによる福音書 第20章24節以下の記事ならば、トマスはこう言っていたはずです。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (25)

パルラハは、よみがえりの主イエスにあったトマスを彫像にしました。が、そのトマスは、主イエスの手と足に小さく作られたくぼみ、釘のあとには、目もくれていないのです。ただ、ひたすらに主イエスの顔を下から食い入るように見ています。目を見開いてみているのです。おそらく、この作品は、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」といった、その一瞬を表しているのではないでしょうか。

トマスにとって、甦りの主に出会ったことは、夢のことでも、絵空事でもなく、現実のことでした。よみがえりの主イエスに出会うことは、それほどに確実なことなのだと、バルラハに教えられた一日でした。

エルンスト・バルラハ展は、2006年7月17日まで、山梨県立美術館で行われています。

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2004.10.31

開かれる言葉


御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。詩編 / 119編 130節

kobito_ao.gif聖書をひもといていると、わくわくするような思いにとらわれることがあります。あるいは、自分が最初に考えていたような意味ではない、全く反対のことを知らされることもあります。
一番困るのは、聖書を読んでも何も響いてこないとき。そんなとき、どうします?
そんなときは、声に出してみましょう。そして、集中して御言葉に耳を傾けましょう。何度でも、何度でも。すると、響いてくる1節が、引っかかってくる1節が出てくるのです。
御言葉か開かれるという体験は、この詩編の言葉そのものの様に、光が差して、わたしたちに進むべき道を示すのです。

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2004.10.15

何故できない 教育現場での禁煙 

秋晴れのもと、各地の学校で運動会が開かれたと思います。先日、地元の小学校でもあったのですが、案内を見てびっくりしました。学校敷地内は禁酒。これはもちろんです。しかし、

「喫煙は決められた場所で」
えっ、ちょっと待ってください。学校の中でたばこ吸ってもいいんですか。
で、当日は喫煙どころか、お父さんお母さんがビール片手に応援している姿も多々見かけました。困ったもんだと思っていたら、実はもっとひどいことが。
これも先日、同じ学校で親子学習会があったのです。参加したのですが、途中でたばこのにおいが漂ってきて、においのする方を見たら、会場となっていた体育館の開け放した入り口の外にたたずむ人影。その方(実は、校◎先生)の右手の間から煙が…。ああ、もう、これだから、だめなんですよ。校◎先生!!!
ついこの間、学校から帰った子どもが、言いましたよ。
km_nikkori.gif「覚醒剤や、麻薬って怖いね。人間の脳みそがだめになっちゃうんだって。タバコも同じだって。小さいときから吸っちゃいけないんだって。先生が言っていたよ。」
クラスの先生がちゃんと教えているのに。その努力を水の泡にしちゃって、もう。
喫煙年齢の低下が問題になっている昨今です。たとえ屋外であろうと、学校の敷地内は禁煙にしましょうよ。なに、がまんできない? それで教師が務まるんですか。 学校内にいるときに禁煙できない先生には、辞めてもらいましょう。そのくらいの覚悟で教育に当たって欲しいと思います。
km_okoru.gif今日の山賀さんは本当に怒ってます。だって、自分の小中学時代、教室の先生はよかったけれど、タバコの煙いっぱいの職員室が一番嫌いでしたから。

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2004.05.09

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。ヨハネによる福音書 / 15章 5節
kobito_lila.gif

ワイン作りに励むブドウ農家は、ブドウの木を手入れする。ドイツのテレビで見たのだが、ブドウの木に枝を接ぎ木してよいブドウを育てるための作業をするのだそうである。そして、枝が伸びるとたくさんのみがなるようにとその枝を市中に丁寧にとめていく。また、必要のない枝は切り取りブドウの木を整えていくのである。
接ぎ木をするのであるから、その枝が幹にしっかりと付かなくてはよい実は得られない。しかし、そればかりではない。イエス様のたとえは実に巧みである。枝が幹にしっかりと繋がるためにも、ぶどう園の主はブドウの木を一所懸命に管理し整えるのである。このことを忘れてはならない。
主イエスは「ブドウの幹である私にしっかりと繋がりなさい。」とだけいわれているのではない。繋がることはもちろん大切なことの一つである。そして、もう一つの大事なことは、そのぶどう園を主ご自身が管理し養われているということである。
私たちはどうかすると、神ご自身が私たちのために働かれていることを忘れてしまう。そして自分の努力の足りなさ、不信仰を嘆いてはいないだろうか。私たちの思いを遙かに超えて働かれている神の力により頼もうではないか。
主イエスのブドウの幹にしっかりと繋がり、主イエスの与えてくださる恵みに信頼して、よい実を実らせようではないか。

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2004.03.07

わたしたちに対する愛

kobito_aka.gif しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ローマの信徒への手紙 / 5章 8節

最近、気になることがあります。子供たちの見るテレビ番組であまりにも簡単に「死」という言葉が出てくるのです。「死ぬ」ということをたやすく口にするように思うのです。
今週のみ言葉の中にも「死」という言葉が出てきます。が、「キリストの死」は私たちが一般に言うところの「死」とは本質的に違うものです。キリストの死は私たちの罪の購いのためのものでした。神様は、私たちの罪の深さを真剣に問われました。唯一の義しいものとして、人間を真剣に裁かれたのです。神様に背を向けた私たちの罪は、情状酌量の余地などなかったのです。そのような私たち人間を救うために、神様はイエス様を十字架の死に定められたのでした。
それで終わりではなかったのです。主イエス様は復活されたのです。それによって、私たちも救われました。「キリストの死」は私たちの「命の救い」なのです。
「命救われたもの」が、なぜ、自分の命を粗末にするようなことをし、「死ぬ」という言葉を簡単に口にすることができるのでしょうか。
受難節(レント)のこの時期に、私たちは繰り返し問い、祈ることが求められていると思います。私たちの罪の深さ、救われた私たちの命の尊さと重さ、私たちの体は神様の宮であり、大切にしなければならないことを。

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2004.02.22

わたしたちはエルサレムへ上って行く

wedink23.gif イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。ルカによる福音書 / 18章 31節


今年は、2月25日が「灰の水曜日」に当たります。この日からキリスト教会は受難節(レント)の季節に入ります。復活祭(イースター)を迎えるまでの40日あまりを、主イエス・キリストの受けられたみ苦しみを思いつつ、自らの罪を悔い改めてすごす期間なのです。
「灰をかぶる」という言葉を、私たちは旧約聖書の中に見ることがあると思います。それは悔い改めをあらわすしぐさなのです。ヨーロッパのカトリック教会では、灰の水曜日の礼拝の最後に、会衆が祭壇の前に進み、司祭から灰を額につけてもらって懺悔を表すということをしています。
私の属している教会(改革派の教会です)では、このような儀式は行いませんが、受難節のこの時期は、特に祈りに集中するときにしたいと思っています。

今週のみ言葉は、ルカによる福音書から、イエス様がいよいよエルサレムに向かわれるというところです。エルサレムでいったい何が起こるかを、イエス様は弟子たちに語られてました。その冒頭に「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」と言われました。
すなわち、イエス様に起こることは、すべて預言されていた、神様のご計画の中にあったことだというのです。長い長い人間の歴史の真っ只中に来られた主イエス。神様がどこにいらっしゃるのか、あがめるべき方は誰なのかを見失ってしまった、迷子の子供のような私たちを救うために、神様はなんとはるかな昔からそのご計画を実行されていたのです。
今年の復活祭(イースター)は4月11日になります。受難節の間も、各地の教会ではいろいろな会が催されています。どうぞお出かけください。
また、この時期にバッハやシュッツなどの受難曲を聞かれる方も多いでしょう。どうか、お手元に聖書をご用意ください。聖書を紐解きながら受難曲を聴かれると、それが単なる音楽芸術ではなく、信仰を持ってかかれたものであることに気づかれることでしょう。

皆様の上に祝福がありますように。

☆受難節のお勧めサイト☆
日本FEBC AMで聞くことのできるキリスト教ラジオ放送局。お近くの教会紹介もしています。ここのリンク集からネット・サーフィンするのもひとつのてかも。

日本聖書協会 いろいろな聖書について知ることができます。

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2004.02.15

百倍の実を結ぶ種

また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。 ルカによる福音書 / 8章 8節

kobito_bloon.gifルカによる福音書8章4-8節は、主イエスの話された「種蒔く人のたとえ」が記されています。そこには4つの種が語られています。道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった種、石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった種、茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった種、そして、良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ種。聖書を読むときに、「さて、私の種は、このうちのどれだろうか。」と、自分にアンケート調査を課してはいないでしょうか。
確かに、実らなかった3つの種は私たちの罪の姿を反映しています。が、同時に、百倍の実りをもたらした四つ目の種は、神様に祝福された私たちの恵みの姿を映し出しているのです。
確かに、私たちは神様の前に素直にたつことのできない、また、神様の愛から遠く離れてしまった存在です。神様は、そんな私たちを罪の中においておくことをなさいません。ひとり子をお与えになり、私たちを絡みつく罪から救ってくださったのです。「私自らが、あなたたちを良い土地に変える。主自らが、み言葉の種を蒔かれる。主自らが、その種を育て、実り豊かなものとしてくださる。」
私たちは、この種の恵みの約束に信頼して、この週も日々の務めを果たしていこうではありませんか。

☆聖書が手元にない方は、日本聖書教会のHPより見ることができます

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2004.02.08

私たちはただで買い取られた

ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 ローマの信徒への手紙 / 3章 24節
kobito_midori.gif 「では、あなたが主イエス・キリストを十字架につけたと告白するのですね。」 よく覚えてはいなかったが、このような内容の台詞だったと思う。大学生のときに、三浦綾子氏の小説、「塩狩峠」の映画を見た。主人公の永野青年が洗礼を受けようとして牧師のところに来たとき、かの牧師は先の問いを彼に問うたのだった。もちろん、青年はそれは違うと答えた。イエス・キリストが十字架にかかったのは2000近くも過去の出来事。現代に生きる自分が、直接手をかけたわけではないと。

神様の前における人の罪。これは、何か悪いことをしでかしたことではない。神の存在を信じない、神から遠く離れたところにいる人間の姿そのものが罪なのである。信じ、信頼するものがないということは、思い煩い、疑心暗鬼の中に生きることになる。神を信頼しないものの生きたかは、自分の仲間、隣人をも憎む生活になっていく。

「愛」という言葉はたやすく「憎しみ」に変わるということを私たちはよく知っている。ただ、変わらないのは「神様の愛」だけなのである。

神は、また、罪をそのままにはしておかれない。正しく裁くお方なのである。それほどまでに、「正しさ」ということを真剣に追求される方なのである。だから、私たち人間が自分自身では負いきれないほどの罪を、一人五、主イエスを十字架にかけるということで救おうとされたのだ。

罪を償いうには、そのあがないのための支払いが必要である。主イエスは、私たちの代価のために支払われた。しかし、私たちはそれを支払うことも、支払いを要求されることもない。私たちは、ただで神様に買い取られたのである。

ぜひ、このことを心に留めて、ローマの信徒への手紙2章以下を丁寧に読んでいただきたい。(聖書が手元にない方は、日本聖書教会のHPより見ることができます)

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2004.02.01

あなたは守られている

主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。詩編 / 91編 11節
kobito_ao.gif こともあろうに、この言葉は新約聖書の中で悪魔が引用している(ルカ4:10)。主イエスを誘惑する悪魔はイエスを神殿の上に立たせて、ここから飛び降りてみろというのである。神が御使いに命じて守っておられるならば、かすり傷ひとつ負わないであろうと言うのである。 ぜひ、詩編91編を通して読んでいただきたい。詩人は歌っている。神様は私をあらゆる艱難、苦しみから守ってくださる。敵の罠からも、災難からも、疫病からも。ここには神を信頼して歩む者の姿が描かれている。 一方、悪魔はどうであろうか。神様が本当に守ってくださるかどうかを試してみろといった悪魔には、疑いに満たされて歩む者の姿がある。 実際、信仰に生きるキリスト者であってもいろいろな災いに出会うのである。「なぜ、私に。」この問いを発しない人はおそらく一人もいないだろう。それでもなお、キリスト者は神を信頼して歩むのである。苦しい道、悲しい道、そのどこにおいても神様は私を守っていてくださるという信頼に生き、歩んでいるのである。苦しいとき、つらいときには周りが見えない。そのような時でさえ、主は倒れそうになる私たちを守り支えてくださっているのである。

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