聖書と教会(今週のみ言葉)

2007.10.06

豊かな希望

また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカによる福音書 / 13章 20-21節)

最近、自家製酵母のパンに凝っています。ヨーグルトやリンゴを使って発酵エキスを作り、酵母を起こして焼いてみました。イーストを使うよりも、味わいの深いパンができあがりました。
聖書では、「パン種」というと、2通りのたとえが示されます。一つは神の国、もう一つは悪いもの。どちらも、少しのものでも、入り込むと全体を大きくしてしまうと言うたとえで語られます。

しかし、最近、自家製酵母のパンを焼きながら思うのです。もちろん、イエス様の時代に、私たちが使っているイーストはなかったはずなのですが、自家製酵母は、中の酵母菌が一種類ではなく、自然界にある様々な酵母の混ざりもの。純粋なものではないのです。その様々な混じりものが、深い味わいを出しすのです。

時として、神様の恵を、私たちは純粋なもの、ピュアなものと感じていることがないでしょうか。いやいや、なかなかどうして。自家製酵母同様、神様の恵は実に多種多様。私たち一人一人に会わせて、また、一つ一つの共同体、それぞれにふさわしく注がれているのです。

少しのパン種がパン全体を大きく膨らますように、神様が与えて下さる恵も、よく用いれば、私たちの愛の業を大きくすることが出来ます。私は、そのためにも、神の国が来るように待ち望みながら、神様が私たちに与えて下さった、神の国のパン種を、大切にしたいと思います。
どんなに、つらいこと、悲しいことがあっても、喜びが増すように。どんな試練にあっても、豊かな希望を得るように。

明日の主の日の祝福を祈って。

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2007.08.13

平和の挨拶

その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。(マタイによる福音書 / 10章 12節 )

韓国の教会を訪ねる旅をしたことがある。韓国人留学生であった先輩が、通訳をかってでてくれて、楽しい、また、実りの多い旅だった。その先輩が、たずねる教会で必ずすることがあった。会堂にはいると、まず席の一つに座り、祈るのである。この地に立てられた主の教会に、祝福があるようにと祈っていた。ドイツでも、韓国からの留学生と友達になったが、彼のお別れの時の挨拶はこうだった。「神様の祝福があるように。」

主の祝福があるように。主の平安があるように。

韓国の友人に特有のことではない。キリスト者の挨拶なんだと改めて思った。いつでも、どこでも、主の祝福、主の平安を私たちは祈ることが出来る。いや、祈るだけではない。祈り求めることが出来る。それは、そこに神様の祝福がちゃんとある、神様の平和があるという確信に基づいているからである。

平和の挨拶を送ることは、主イエスが命じられていることなのだ。だから、信仰者は、ただの願望や、希望によって祝福や平和を祈るのではない。私たちが確信して祈るときに、主の祝福と平和が実現するからである。

8月にはいると、毎年のように戦争の話がいろいろなところで話題になる。あの敗戦の日から62年にもなっている。しかし、決して、今の時代が「平和なとき」とは言い切れない。未だに無差別の殺戮があり、無意味に人の血が流され、世の中は悲しみに満ちている。

しかし、私たちは、「だから神様なんかいない」とは言わない。それば絶望を求める言葉だから。私たちキリスト者は、人に会う毎に、人を訪ねる毎に、主の祝福と平安を祈る。それは、私たちに希望をもたらすから。

今日、この御言葉に触れたあなたに、主の平和がありますように。

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2007.08.06

神の国と神の義を求めなさい

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイによる福音書 / 6章 33節)

先日、少し残念な話を聞いた。

Aさんは、若い頃に洗礼を受けた。その方に洗礼を授けた牧師は、「わかってから洗礼を受けるのではない。洗礼を受けてからわかるものだ。」と言って促し、洗礼を授けたそうである。しかし、受洗のあとも、取り立てて何の訓練も、Aさんにはなかった。

やがて、故郷を離れ、東京に出てきたときに、ある教会に転会した。その教会を牧していたX牧師の話に感銘を受けたそうである。X牧師はちょっと変わったところがあった。牧師であるのに、キリストの復活は理解しがたいと言ったという。Aさんも、キリストの復活について疑問があり、その点で、X牧師の言葉に、共鳴するところがあったようである。

X牧師が他の教会に転任され、次に、Y牧師が来た。Y牧師は、聖書に忠実に説教をした。これは、X牧師とはまったく違うタイプの教師であったという。しかし、問題が起きた。教会員の多くが、Y牧師の説教に感銘を受けないと言いだし、教会は分裂。AさんもY牧師の語る言葉に耳を傾けることが出来ず、結局教会から足が遠のいてしまった。

長く教会生活から離れた後、年老いたこともあって、もう一度教会へと言う思いから、自宅近くの教会を訪ねた。しかし、主日礼拝で使徒信条を告白するたびに、キリストの復活を信じていないこと、素直に使徒信条の文書を告白することが出来ないことに苦しみを覚えたという。Aさんのことを心配するキリスト者の友人も、「あなたの頑なさを捨てなさい。」とさとし励ましたのだが、遂に、教会生活をすることを断念し、教会へは行かない決心をしたとの手紙を牧師に書いた。

特別な話のようだが、この類の悲劇は結構耳にする。なぜ、悲劇が起きるのか。信仰の要が初めからはずれているのである。

Aさんの言葉には、「理解する」という意味の言葉はあっても「信じる」という意味の言葉は少ない。洗礼を受けたときも、洗礼を授けた牧師の人柄に惹かれただけであって、主イエスには出会っていなかった。さらに、X牧師の話に感銘を受けたが、Aさんの魂は揺さぶられなかった。感銘を受けるのは、人間的な心の次元の問題である。X牧師の話は、神の言葉ではなく、人の言葉としてAさんの心感銘を与えたにすぎない。ここに、説教者の責任もあるのだろう。

Aさんが、魂に揺さぶりをかけられたのは、最後の教会だろう。教会員が心から主イエスを信じて、信仰告白をするただ中にいて、主の復活を信じることが出来ず、したがって、使徒信条を告白するたびに苦しくなるのは、むしろ当然のことである。なぜなら、主イエスが、その頑なな扉を、拳で叩くからである。「早く、この扉を開けなさい。開けて、私の復活を受け入れなさい」と言われているからである。

しかし、Aさんは別の道を選んだ。もちろん、教会の牧師も、教会員も、また友人も、どれだけAさんの救いのことを祈っていたかわからない。ことある毎に、Aさんに声をかけてきたかわからない。もちろん、今でも、みんなが祈っている。一日でも早く、気が付くように。人が自分を変えてくれるのではなく、人をして語られた神の言葉によって、自分が変わることを。変わるために立ち上がることを。立ち返って、主イエスは私のために死に、私のために復活されたことを信じることを。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この言葉をAさんはどのように聞くのだろうか。神の国と神の義を求めるならば、私たち人間が、その御言葉の前にどんなにあらがっても勝ち目のないことは明白に見えてくる。だからこそ、全てのことを治めておられる主に我が身を安心して委ねることが出来るのではないか。主イエスの復活も、理解することではなく、信じることが求められていることに気が付くのではないか。いや、今からでも遅くはない。気が付いて欲しいのです。気が付いて、回れ右をして、教会に帰ってきて欲しいのです。

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2007.07.18

聖霊の助けにより

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 (コリントの信徒への手紙一 / 12章 3節)

多くの教会では、礼拝の中で、三要文(十戒、主の祈り、使徒信条)の全てかそのうちのどれかを用いている。
十戒。往年の映画スター、チャールトン・ヘストン主演の映画として、記憶にとどめている人も多いと思うが、聖書では出エジプト記20章に登場する。モーセによってエジプトから導き出された民の民、イスラエルに対して、神が与えた十の言葉、戒めのこと。
主の祈り。これは、新約聖書マタイによる福音書とルカによる福音書の中に記されている。主イエスが、弟子たちに「このように祈りなさい」と示した祈りのお手本。教会では、礼拝の他、いろいろな集会においても一緒にいるのことが多い。
こう見てくると、十戒、主の祈りは、神が私たち人間に与えた言葉である。が、信仰告白は、と考えると、これは、人間が作ったものともいえる。しかし、教会がどういう信仰理解にたっているかを明確に示したもので、単なる教会の声明文のようなものではない。

私が出席している教会では、礼拝の中で使徒信条を告白している。そう、教会の信仰告白としてみんなでその文言を口にするのだ。最初は、書かれている紙を見て言うことが多かったが、次第に暗記し、見なくてもスラスラ言えるようになった。そのときに、はっとさせられたのが、今日の御言葉である。

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

ドイツに滞在していた友人が、現地で子供に幼児洗礼を授けて貰った。そのときに、誓いの言葉をこう言ったという。

「誓います。神の助けによって。」

「神の助けによって。」そう、聖霊の助けを求めつつ、この子に洗礼が授けられることをのぞみ、その子が教会の子供として育ち、そのための養育のつとめをなしていくことを誓うのである。これは洗礼の時だけに限らない。結婚式の誓いの時も、教会役員の任職式の時も、同じ誓いの言葉が述べられた。

聖霊は、神から送られた、私たちの助けてである。聖書には、この聖霊は、私たちの苦しみ、悲しみを最も深いところで知り、私たちに必要なものを与え、助けると記している。この力強い味方を、私たちは、神に祈り求めることが許されているのである。

聖霊の働きは、私たちに見える形で、あるいは見えない形で現れ、働いている。それを「気休めだ」という人がいるなら、言わせておけばいい。信仰者の笑顔、そして、悲しんでいる人の傍らに立ち続ける力、空しいと思われるような努力をも続ける忍耐を与えて下さるのは、まさに聖霊の助けがあるからだ。その一つ一つを信仰者は数えることが出来る。これこそが、主イエスを信じる信仰の力と、胸を張って言うことが出来るから。

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2007.07.10

明日の苦労を背負い込まない

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書 / 6章 34節)
聖書を読んでいると、その聖句に触れると、必ず立ち止まってしまう箇所が、いくつかある。マタイによる福音書、第6章25節以下も、そうだろう。

先日、20人ほどのご婦人たちとこの箇所を読んだ。おそらく、そこに集まった方たち、また、今、この記事を読んで下さっているあなたも、苦労がなかった一日など無いに違いない。誰でも、大なり小なり、その日の苦労があり、試練があり、心配事がある。それら一つ一つを、気に病めば、ますます不安で心が重くなる。そこで、主イエスは、「思い悩むな」と言われたのだろうか。

改めて、6章の最初から読み直してみた。5節からは、主の祈りが書かれている。そして、何度も何度も、記されているのは、神の国と神の義を求めること。神のご支配のあるところ、私たちの必要なものは全て主によって与えられるという。
主の祈りの中に、

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 」(11)

がある。明日の糧ではない、あさっての糧も、でもない。今日の糧である。イスラエルの民が、エジプトを出たあと、荒れ野で食べ物が無くなったときも、主なる神は、【今日】食べるマナを与え、【今日】食べるウズラを降らせた。

あのときも、【食べるものが再びなくなるかも知れない】と不安にかられた何人かの人は、明日のマナを集め、明日のウズラを捕ったが、何にもならなかった。
私たちは、あすの糧ばかりが、明日の労苦、あさっての不安まで抱え込んではいないだろうか。あすの労苦を抱え込んでしまって、今日、主が助けを与えて下さっている恵を、見失ってはないなだろうか。

あすの労苦まで抱え込む必要はないのだ。今日、主によって助けられて歩む、そのことを感謝し、希望を持とう。明日には、あすの助けがまた与えられるのだから。そして、私たちがつなぐ希望は、きっと闇のように見える試練に、光と勝利をもたらすのだから。

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2007.07.02

神の光

闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書 / 9章 1節

この預言者の言葉は、マタイによる福音書第4章に引用されている。主イエスが、荒れ野から帰られたあと、ガリラヤで伝道を始められたことを伝える記事である。

主イエスが私たちの所に来られたのは、この預言が成就するためであったと、福音書は伝えている。
さて、この時に、主イエスは、言われた。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
「天の国」とは、「神の国」のことである。もとの言葉から言えば「神の支配」と考えてもいい。
イザヤはそれを「光」という。
闇の中、罪の闇の中にいた私たちに、光がさす。それは、いきなり私たちを照らすのではなく、最初は気づかないくらいに、かすかに光っていた。が、どんどんと光を増し、あっという間に、私たちに近づいてきた。
暗闇の中にいた私たちは、闇の目が慣れていたので、初めは、その光を光として認めることが出来なかった。しかし、見よ、これこそ、神の国が放つ光、神の義が放つ光。
光の中で、私たちの闇の部分は、明らかにされた。しかし、それは、神が闇の中から光の中に立ち返れとの御言葉となった。また、死の影にうずくまっていたものも、その光に照らされた。光を見たものは、闇から光へと目を移した。たとえ、死が私の目の前に迫っても、闇ではなく、光を見ることを知ったのである。それは、どのような苦しみの中でも、生きる希望を見いだす道しるべとなった。
光を受けた人々は、その光を携えて、さらに闇を照らすために派遣されていく。
あなたも、この光のもとに来て欲しい。あなたも、この光を携えて、世の中を照らすものとなって欲しい。
それが、主イエスが私たちに命じられたことなのである。

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2007.05.05

聖なる者

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。(コリントの信徒への手紙一 / 6章 11節 )

「私は、○○さんにつく。」
「私は、××さんに従う。」
そう人々が言って、バラバラになりかけていたコリントの教会に書かれた手紙、それが「コリントの信徒への手紙」です。痛烈な皮肉を込めた言葉で、しかし、教会が分裂してはならない、主なる神において一つになれと、手紙の著者は語ります。

この手紙を、第一章から丹念に読んでみると、一つの鍵の言葉が浮かんでくるように思えます。
「聖なるもの」
そう、手紙の著者は、何よりも、コリントの教会の人々を、
「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」(1:2)
と挨拶呼び、挨拶を送っているのです。

人は、生まれながらの罪人。しかし、今のあなたは違うだろう。あなた達は、キリスト・イエスによって聖なるものとされ、召されているのだ。その聖なるものの群れである教会が、どうして分裂して良いだろうか、と…。

今日の御言葉も同じことを繰り返し語っています。6章9-10節には、悪のリストが書かれています。手紙の著者は言うのです。「あなた方の中にはそのようなものもいた。しかし、今は違う。」と。

ここで、ギリシア語の聖書を見ると、
「しかし、あなた方は洗われたのだ、しかし、あなた方は聖なる者とされた、しかし、あなた方は義とされた、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって」
となっています。手紙の著者は、「しかし」を3回繰り返し、あなたは方洗われたのだ、あなた方は聖なる者とされたのだ、あなた方は義とされたのだと、念を押すように語るのです。

決して、傲慢な意味ではなく、現代に生きるキリスト者は、このことを忘れてはいないでしょうか。神に召され、その霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされているならば、もはや、私たちは罪を重ねることをしてはならないと思うのです。神の御心を慮るのならば、全ての人々の平和を願い、そのためには忍耐を持って悪と戦い、御言葉をのべつ耐えることこそ大切なのではないでしょうか。

明日の主の日、世界中の、全ての人々の上に、イエス様の祝福がありますように。

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2007.01.21

十字架の死に至るまでの従順

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマの信徒への手紙 / 5章 19節)

ローマの信徒への手紙は、神の義の人間の罪(不義)について語っています。
手紙の著者、パウロは、アダムの違犯によって、私たち人間は罪に定められたが、一人の人キリストの従順によって全ての人が救われたことを記しています。
このことをより深く考えるために、私たちはアダムのことを考えてみたいのです。というのは、アダムはなぜ罪を犯したのでしょうか。
神様が、天地創造をされて、最後に人間を作られたときに、作られたもの全てをご覧になって「良い」と言われました。何より、人間は、神様の形に似せて作られたのです。このことは、人間は、その最初から悪くはなかった。むしろ、神様の戒めを守ることのできるものとして作られたのです。主イエスが、律法の全てを、「唯一の神を愛すること、隣人を自分と同じように愛すること」の二つにおまとめになりましたが、そのことが出来る者として、私たちは作られたのです。
ですから、アダムとエバは、ヘビの唆しにあったときにも
「私は、神の言葉に従う。あなたの唆しには従わない。だから、あの木の実は食べない」と拒否することも可能だったはずです。しかし、彼らは、神の言葉に従わず、悪魔の言葉に従いました。
神様から頂いた自由を、自分の身勝手な思いのために使ったのです。これが罪です。

しかし、神様は、このような私たち人間を、本来の姿、神を愛し、人を愛する者に取り戻すために、主イエス・キリストを乙かをしになったのです。しかも、主イエスは、その救いの計画のために、十字架の死に至るまで神の言葉、神の御心に従順であられたのです。
「本当の意味で、人を愛することは難しい」と、よく言われます。確かに、「愛」は利己的で、身勝手な側面があります。しかし、この神様の御心、それに従われた主イエスにおいて現れた、私たちの救いを信じたとき、「愛」は身勝手な者ではなくなり、本当の意味で人を愛すること、神を愛することが可能になると思うのです。
この愛の中に、あなたも生き欲しいのです。

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2006.12.21

滅びる者は一人もなく

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 / 3章 16節)

「神がその独り子をお与えになった。」これがクリスマスの出来事です。
一般にクリスマスと言えば、イエス・キリストの誕生日と知られているのですが、わたしたちはそれをわたしたちの誕生日のように「おめでとう」と祝うのではありません。
神のひとり子が肉を取ってこの世に来られた。それが、その御子を信じることによって全ての人が罪から救われるためであること。この喜びの出来事、奇跡をわたしたちは自分の身に起こったことであると信じて受け入れるのです。
 クリスマスには教会でも様々な行事があります。教会学校の子どもたちが降誕劇を演じ、24日にはろうそくの灯火のもとで礼拝をする教会も多いと思います。子どもたちのかわいい演技を楽しみ、ろうそくの美しい雰囲気に酔いしれるかもしれません。
 しかし、決して忘れてはいけないのです。「神がその独り子をお与えになった。」これがクリスマスの出来事であると。それは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であり、神様はそれほどまでにこの世を愛されたのだということを。この罪の世を呪うのではなく、愛されていることを。

2004年12月18日に公開したものの再公開です。

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2006.12.16

祝福の挨拶

マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。(ルカによる福音書 / 1章 41節 )

天使ガブリエルから、御子を宿すというお告げを聞いたマリアは、同じく神の定めによって身ごもっている親類のエリサベトをたずねます。神様が人間を救おうとしてなさった大いなる計画。その計画に身を献げるように二人の女性は神様の定めを身に引き受けました。エリサベトは洗礼者ヨハネの母となり、マリアはイエスの母となったのです。
二人の胸の内にあったのは、子を宿した事への喜びよりも、神様の定めの中に入れられているという畏れだったかもしれません。
「献身」という言葉があります。文字通り身を献げるのですが、神様のお召しにしたがって生きるということです。いってしまえば簡単なことですが、実際はどうでしょうか。
伝道者になるために勉強をしている神学生が良くぶつかるのは、「これこそは神様のお召しだ」と思って献身、神学校に行くようになったのに、その召命がぐらつく時です。召命の思いは本当に神様からのお召しだったのが、単なる自分の思いこみであったのか。一人では確かめようがないのです。しかし、神様は人間を一人にはしておかれませんでした。マリアにエリサベトがいたように、エリサベトにマリアがいたように、互いに執り成しあうものを備えてくださっているのです。神学生にとっては同じ神学を学ぶ友かもしれません。神学校の教授かもしれません。所属する教会の牧師かもしれません。執り成しあう人がいれば、召命が本物の時はその危機を乗り越える助けを与えられますし、もし、その召命が自分の思いからであれば、(それは伝道者になることではないにしても)本当に神様が召されている道に進む勇気を与えてくれるでしょう。
神学生ばかりではありません。わたしたちの日々の生活がすなわち、献身の生活なのです。神様に献げた生活なのです。その重さは、一人で担うものではないのではないでしょうか。
ルカによる福音書は、マリアの受胎告知までは静寂の中で物語を語りました。よけいな呟きを退けるかのように、ガブリエルはザカリヤの口を閉じました。マリアは思慮深くガブリエルの言葉を引き受けました。しかし、この祝福の挨拶から、一気に賛美の声が響き始めます。エリサベトは御霊に満たされて神をたたえ挨拶します。マリアは高らかに神をたたえる歌を歌います。
続く物語は洗礼者ヨハネの誕生です。ここでザカリアの口は再び開き、神をたたえる言葉がほとばしります。そして、クリスマスの物語。天使たちの大合唱が羊飼いたちのいるのに響くのです。ルカによる福音書はそこで終わらないのです。天使たちの合唱は再び登場するのです。それは、受難を前にした主イエスのエルサレム入城の物語。この物語に於いて主を迎えるエルサレムの人たちの口に再びこの賛歌が備えられるのです。
響き渡る賛歌、そして祝福の挨拶。わたしたちはこの喜ばしい響きが、わたしたちの救いの先取りであることを悟らなくてはなりません。わたしたちの救いのために来られた主イエス。なぜ、神様がそのひとり子をお与えにならなければならなかったのか。そのことをしっかり心にとめることは、祝福の挨拶から始まった喜びの響きを、もっともっと響かせるものになるのではないでしょうか。

(2004年11月16日に公開した記事の再掲載です)

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2006.10.31

羊飼いの見つけた赤ちゃん

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカによる福音書 / 2章 12節) 

まだ、クリスマスには早いと考えるかもしれませんが、家庭集会の場で、ルカによる福音書第2章の記事を読みました。主の御使いが、羊の番をしている羊飼いたちのところに来て、主イエスの誕生を告げるところです。天使は言いました。

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

羊飼いたちは、その言葉に従って、主イエスがお生まれになった厩を見つけ、確かに、飼い葉桶の中に寝ている赤ちゃんを見つけ出したのです。
 しかし、思えば不思議な話です。天使の告げた言葉はこうでした。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

そして、羊飼いたちが見つけ出したのは、乳飲み子のイエス様でした。イエス様といえども、乳飲み子です。マリアが乳を与えなければ、飢えてしまうかもしれない。汚れたおむつを替えなければ、おしりがかぶれてしまうかもしれない。ちょっと強く揺さぶれば、簡単に死んでしまうかもしれない。そのような、小さな、弱い存在として、主イエスは、私たちのところに来られたのです。

私たちは、時としてこう考えます。
神様が全能の方ならば、なぜ、その力で、この世の悪を払い、私たちの不安をぬぐい、あらゆることをたちどころに解決してしまわれないのか。本当に、神様なんているんだろうか。

神様が本当にその強い力で、この世をぬぐわれたならば、私たちは自らの罪深さの故に、死ぬ他はないでしょう。しかし、神は、そのひとり子をこのような小さな弱い存在として、この世におつかわしになりました。主イエスは、その最初から私たちの中のどの人よりも小さく、どの人よりも弱い者として、この世に来られたのです。私たちをしたからしっかりと支えるために。ですから、主は私たちのどのような小さな悲しみも、どのような小さな不安も、とのような小さな苦しみも、悲しみも理解して下さるのです。
主イエスが共にいて下さるから、私たちは、どのような大きな困難にも耐えることができるようになりました。

このイエス様の降誕を待ち望み、お祝いするクリスマスが近づいています。

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2006.10.05

弟は死んでいたのに生き返った

だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカによる福音書 / 15章 32節)
幼いときに、両親の信仰によって、小児洗礼を受けた人たちがいます。この方たちは、成長した後、今度は自分の口で罪を告白し、信仰を言い表すことが求められます。信仰告白式を経て、成人会員として教会の一員となるのです。
しかし、残念なことに、どこの教会でも、小児洗礼を受けている子供たちが信仰告白にまで導かれるのは、なかなか大変なようです。
多くの場合、キリスト者の家庭の子供たちは、親の信仰、あるいは教会員の姿を見て、失望することがあるのです。信仰を持っているといいながら、なぜ裁き合うのか。なぜ、言いたいことを言って争い合うのか。彼らの多くは、大人の信仰者が偽善者に見えると言います。
また、ここ数年は、キリスト教徒であると自称しながら、戦争に邁進している政治家の姿が、テレビで放映されることがしばしばとなりました。全く、残念なことです。

しかし、同時に思うことがあります。偽善者だと言って、大人の信仰者が信じられないといって、どうしてあなた達は、教会から離れてしまうのでしょうか。聖書の言葉に耳を傾けることを止めてしまうのでしょうか。確かに、偽善の行動をとる人たちがいます。イエス・キリストの名を振りかざして、信仰とは全く異なった、自分よがり名行動を正当化しようとしている人たちもいるのは事実。
実は、私たち全ては、神の前から失われてしまった息子と同じなのです。

放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟に対して、父は祝宴を開きました。それに対して、兄は文句を言ったのです。この兄も、神の前から失われかけている息子です。父なる神は、私たち全てを回復するために、私のもとに立ち帰れと呼ばれているのです。

キリストの名を語りながら、偽善をする大人たちは確かにいます。でも、神様は、そういう大人たちを見て信じられなくなっている、あなた達に対して、「私は確かに生きている。あなたが私の元に返ってくるのを待っている。答えるのを待っている」と呼びかけているのです。私たちが生き返ることを待っているのです。

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2006.09.28

預言する者

しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。(コリントの信徒への手紙一 / 14章 3-4節)

私が、洗礼を受けたとき、牧師は説教の中で交言いました。
「洗礼を受け、キリスト者となった私たちは、みな、預言者になります。主イエスのみことばを背負って歩くからです。主イエスに救われた喜びの中を歩くものとなるからです。」

コリントの信徒への手紙一第14章で、パウロは、「異言」と「預言」について語ります。どちらも、同じ一つの霊から私たちに与えられる賜物です。(12章参照)パウロはどちらも否定してはいません。が、注意を促しています。
「異言」は解釈され、解き明かされ、聞いた人が理解するものでなければ、役に立たないというのです。
「預言」は、人を造り上げ、励まし、慰め、また、教会を造り上げる言葉です。

ああ、そうだ。洗礼を受けたときに、牧師が語ったこと、「私たち、キリスト者は、みな預言者となる。」それは、私たちの語る言葉が、人を造り上げ、人を励まし、慰める言葉となることなんだ。そのために、私たちは、自分の発する言葉を祈りながら整えていくことが、求められているんだと思うのです。

週日は、教会の外で、たくさんの人に会います。いろいろな人とお話をします。直接、聖書の話、信仰の話をするわけではないけれど、日常のちょっとしたおしゃべりの中にも、主イエスにあって、人を造り上げる言葉、人を励ます言葉、人を慰める言葉を与えてくださいと、祈りたいと思います。

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2006.09.13

風を叱るイエス

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコによる福音書/4章 39-40節) 

マルコによる福音書第4章35節から、奇跡の話が記されています。夜、ガリラヤ湖の対岸へ渡るために、主イエス一行は船を進めしまた。しかし、突然の突風に船は沈みそうになります。弟子たちは大あわてで水をかい出すのですが、船はまさに沈没寸前。ところが、イエス様は船の艫でグウグウと寝ておられる。
「イエス様、どうして、おきて助けてくださらないのですか。」
弟子たちは悲鳴を上げました。そこで今日の御言葉です。

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコによる福音書/4章 39-40節) 

イエス様は、弟子たちの信仰のなさをお叱りになりました。しかし、不思議です。彼らの命は危険にさらされていたはずです。船が沈んでしまったら、何もかもおしまいになってしまったはずです。それとも、イエス様の力を信じて、一緒に船の中で寝ていて好かったのでしょうか。そんなはずはない。イエス様はそれまでにも、病気で苦しんでいる人、汚れた霊にとりつかれた人を助けたではありませんか。その人たちも、イエス様に頼る以外に助かる道はないと信じてやって来たはずです。それなのに、なぜ、ここで弟子たちは叱られたのでしょう。

ここで「怖がるな」と訳されている言葉は、ただ怖がっているだけの状態を示す言葉です。弟子たちは臆病になっていたのです。イエス様がそばにおられるのに、しかも、そのイエス様は、安心しきって寝ておられたのに、弟子たちはあわてふためいたのです。

この言葉にはっとして、

弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(41)

今度の恐れは、神に対する恐れです。先ほどの恐れとは異なるのです。そして、「この方はどなたなのだろう」と問うた弟子たちの問は、この後ますます深められ、ついに、復活の主イエスに出会ったときに答を与えられるのです。

主イエスは、風と波をおしかりになったと聖書は記します。本来なら、臆病になり、あわてふためく弟子たちに対して、「黙れ、静まれ。」と言うところだったのかもしれません。しかし、主イエスはそのかわりにこういわれました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」なぜ、いたずらに恐れ、騒ぐのか。まだ信じないのか。私を信じ、なすべきことをするのだ、とイエス様はおっしゃりたかったのです。

私たちの生活も、弟子たちのように、心を騒がせ、あわてさせる事件が起きます。しかし、主イエスを信じている私たちは、それでもなお、自分に与えられたことを、たとえそれがほんの小さなことでも、心を込めて一所懸命にできるのではないでしょうか。私たちのかたわらにも、何にも動じないイエス様がおられる。だから、私たちは波にも、風にも驚くことなく、今やるべきことをできるのだと。

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2006.09.04

御子によって世が救われるため

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 (ヨハネによる福音書 / 3章 17節)

 神が、そのひとり子、イエス様をこの世にお与えになった。イエス様をこの世にお遣わしなったのは、イエス様によって、この世が救われるためであると、福音書記者は記しました。

私たちは、時々、人の理解の及ばないものに驚き、怖れます。特に、自分に降りかかる不幸や、自分が苦しいとき、困難に出会っているとき、暗い気持ちになったときに、「どうして、こんな目に・・・」と思うのです。

なにか、悪いものがついているのではないか。それもと、自分かなにかどこかで、悪いことをしているためではないか。たたりや呪い、そういう類のものに縛られているのではないか。
しかし、縛られているのではなく、そのようなものを自ら身にまとって、自分自身を縛り上げているのではないでしょうか。

神様がイエス様をこの世にお遣わしなったのは、私たちがしっかりと神様を見ることが出来るようになるためです。私たちは、神様の方をちゃんと見ることが出来ません。神様の正しさの前に、ただ、うつむいてしまうだけ。そのような私たちを助けて、神様をしっかりと見上げることができるように、イエス様はしてくださったのです。

よく、「神を信じないものには、災いが下るぞ。悪いことが起こるのは、神様を見ていないからだ。」と声高に叫んで、自分の所属している団体に勧誘する人たちがいます。でも、神様は私たちを脅して、ご自分の元に戻そうとはないさません。そうではなく、心から、私たちが神様を求めるようにと、むしろ招いてくださっているのです。

私たちがちゃんと神様のもとに来て、「父なる神よ」と呼ぶことができるようにと、私たちの助けてとして、イエス様をお遣わしなったのです。

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2006.08.13

キリストの平和

実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソの信徒への手紙 / 2章 14節 )

エフェソの信徒への手紙が書かれた背景には、ユダヤ人キリスト者と、異邦世界のキリスト者の間の確執がありました。律法を守ること、その他の儀式…、あらゆるところで意見の違いがあり、摩擦が生まれたのです。

そのような中で、この手紙は、「平和」の基は何かを教えています。平和の基、それはイエス・キリストです。主イエスは、ユダヤ人キリスト者ばかりでなく、異邦人世界に住む人たちのためにも、救いのみわざを成し遂げられた、と手紙の著者は語ります。なぜならば、主イエスの十字架と復活において、成し遂げられたものは、何よりも、神と人との和解だからです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、共に神に赦され、神の民となったもの同士が、なぜ争うのか。主イエスの救いは、わたしたちの間から敵意という壁(敵ではない!!)を崩してしまったのではないか、と手紙の著者は訴えるのです。

8月に入り、教会学校教案は、「キリストの平和」を取り扱っています。しかし、不思議なのは、教会学校の礼拝で語られる説教が、子供たちの喧嘩、かつての戦争の話、今もなお行われている戦争の話になってしまうことです。
特に、戦争の話をするときに、なぜ、それを対岸の火事のように、「わたしたちは平和を願っているのに、今も戦争をしているところがあります。」と言いうるのでしょうか。

主イエスの救いは、わたしたちの間から「敵意という壁」を取り去ったのです。武器を持つ戦争も、子供の痴話げんかも、「敵意」がわたしたちを罪のわざへと駆り立てるのではないでしょうか。

もし、わたしたちが平和を願うのならば、キリストの平和に生きることです。敵意が崩されたのですから、わたしたちは互いが許し合う関係の中に、生きることです。まず、わたしたちの間から、そのことを行いましょう。戦争は確かに残念です。しかし、わたしたちの間から、敵意ではなく許しあう心が、少しでも育っていけば、平和の道への前進となると信じています。そして、ニュースでは報道されないかもしれないけれど、あの戦火の最中にも、そのように祈りつつ、働いている人たちがそこにいるのです。

キリストの平和がなりますように。

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2006.08.06

平和を願うもの

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創世記 / 32章 27節)

 ヤコブは一番最後に残りました。これから、兄エサウとの再会をしなければならない。兄と別れたのは、遙か昔のことです。兄が思慮に足りなかったとはいえ、長子の特権を奪い、母が勧めたからとはいえ、兄が受けるはずの祝福を奪ってしまったヤコブです。殺意を抱く兄の手から逃れて、長い時間がたちました。神様の命令に従って、故郷に帰るとはいえ、どうやってあの兄、エサウと再会したらいいのでしょうか。

 ここでもヤコブは策を練ります。自分のキャラバンを二つに分けました。贈り物を先に行かせました。家族を先に進めました。そして、ヤコブは一番最後を行くことにしました。エサウの隊が襲ってきても、逃げることができると考えたのでしょう。

 しかし、ひとりぼっちになった夜に何者かがヤコブを襲ったのです。多くの場合、この何者かを「神のみ使い」と人々は読みました。なかなか勝負がつかない中、御使いはヤコブの腿の関節を打ちました。ヤコブは立てなくなり、御使いにしがみついたのです。
「祝福をしてくださるまで放しません。」
ヤコブは御使いに祝福を要求しました。

ヤコブは御使いに勝ったのでしょうか。確かに御使いもいいます。

「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(29)

そう、ヤコブは確かに、組み討ちでは御使いに勝ったのです。しかし、そこでヤコブが知らされたことは、真の勝利者は「神」だということでした。なぜなら「イスラエル」という名前は、「神は闘われる」「神は支配される」という意味だからです。

そうだ。私は神に支配されている。自分が今まで闘ってきた不安を、神が闘っておられたのだ。

このことを知らされたヤコブは、もう隊列の一番後ろから行く必要が無くなりました。先頭を行ったのです。(33:3)そして、平和のうちに兄との再会し、和解を果たしました。

わたしたちのうちにある不安、恐れ、疑いは、わたしたちに戦いを挑んできます。相手を疑う心、怖れる心が、不安を呼び、そこから逃れるために相手を打ち砕こうとします。しかし、わたしたちが本当に闘う相手は、わたしたちの中にある疑い、恐れ、不安ではないでしょうか。これらのものと闘う主イエス・キリストを知ったときに、わたしたちはひとりぼっちで疑う心から解放されます。怖れる心から解き放たれます。不安になるよりも、人と平和に歩む道を求めるようになるのです。

イスラエル。このすばらしい名前を持つ国で、残念なことに、今も血が流されています。そこに住む多くの人々は、真の平和を願い、力による解決よりも、話し合いによる和解を求めています。ただ、力が余りに強いので、その歩みはなかなか前に進みません。しかし、何よりもこのことを悲しみ、涙を流しつつ、闘って折られる神がいることを信じて、諦めないで祈りたいと思います。

一日も早く、この地上に真の平和がなりますように。

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2006.07.19

最も重要な二つの掟

律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイによる福音書 / 22章 40節)

「この二つの掟」とは、

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 
と『隣人を自分のように愛しなさい。』

のことです。どちらも、旧約聖書、申命記の中に出てくる言葉です。そして、主イエスは、この二つのおきてが、旧約聖書に著されている全ての律法、全ての預言の基となっているといわれました。

わたしたちは、普通、第2の戒めは飲み込めると思うのです。『隣人を自分のように愛しなさい。』 人間は一人では生きていくことができません。ならば、できるだけ多くの隣人と助け合い、平和な社会を作ることを目指します。
では、主イエスは、この戒めを第2とし、なぜ、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』  を第1とされたのでしょうか。
わたしたち人間同士が平和であれば、それで良いのではないか。なぜ、それに先だって、神を愛することが求められているのか。

その答は、わたしたち人間が神を愛する以上に、神がわたしたちを愛していてくださることにあると思います。

あるときに、銀婚式を迎えたご夫婦が次のようなことを言われました。
「わたしたち夫婦が、25年間、共に暮らすことができたのは、神様の御守りによります。私が妻を愛することができたのは、この妻を神様が彼女の罪を赦し、愛してくださったからです。神様がゆるしあいされているものを、なぜ私が、赦し、愛さないでいられるでしょうか。」ご夫人の方も、同様のことをいわれました。

夫婦の関係のみならず、わたしたちが人を愛しようと思ったときに、人間の努力だけでは愛することのできない現実にぶつかります。愛は容易に嫉妬に代わり、憎しみに変わるのです。しかし、この人を主なる神様が赦し、愛してくださっている。この私を赦し、愛してくださるのと同様に、この人を愛されている。そのことに気づいたときに、わたしたちは真心から人を愛することができるのです。それを知るには、神を愛することから始めなくてはわからないのです。

わたしたちが神の愛を知り、神とのつながりを持ったときに、横のつながりをもしっかりと持つことができるのです。

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2006.07.03

全ての人を主の前に

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。(マルコによる福音書 / 2章 4節)

ナザレのイエスという、すごい力を持ったお方がいる。悪霊を追い払い、病を癒やしてくださる。語られる教えは、すばらしい。
主イエスの評判を聞きつけた人々が、いつも主の周りを囲んでいました。この時も、主イエスの語られる話を聞こうと、大勢の人が戸口までもいっぱいでした。
そこに、中風の人を4人の男が運んできたのです。寝たきりで、自力では何もすることができなくなってしまった人を、主のもとに運んできた4人です。
「イエス様に会いたいんです。あけてください、通してください。」
しかし、身動きのできないほどの人だかり。4人は屋根に登るとそこの土をはがし、ちょうど主イエスの真上に、中風の人を床ごとおろしました。
この4人は、寝たきりになってしまった友達を主の御言葉に託すようにして、連れてきて、屋根から主の真ん前におろしたのです。
教会にもいろいろな方が来られます。小さい子供、年老いた方、体の不自由な方、健康な人。教会に来られる方たちと礼拝をまもる時に、いつもこの御言葉を思います。それは、なにか事情のある方を、特に心配りして招くというものではありません。この御言葉で大切なことは、一人の供を主イエスの御前に連れてきた4人です。一人の魂を救うために、主イエスの御言葉に全てを委ねて、運んできたことです。
教会にも小さな子供を連れた家族が来ます。子供はお父さん、お母さんが自分よりも大切な物を見ていることを気づいています。だからちょっぴり嫉妬して、少し声を大きくします。近くのベテランママが、その子を抱きかかえていいました。

今はね、神様の言葉を聞いているんだよ。神様の声は、よーくよーく聞かないと聞こえないの。ちょっとだけ、お声を小さくできるかな。」

小さく頷いた子は、お祈りの「アーメン」だけは大きな声で言いました。
年老いたお母様を連れてこられたご婦人がいます。脳梗塞のために少し体に麻痺があります。礼拝堂までの階段が上れるだろうか。半ば諦めていたそうです。でも、連れてきました。ちょうどそこに居合わせた仲間が、みんなで手を貸して励ましました。
毎週は来られないかもしれない。でも、信仰に導こう。祈りの課題をみんなが持ちました。
高齢のために、礼拝に来られなくなった方の週報棚はいつも空っぽです。同じ高齢者用のマンションに住んでいる方が、毎週届けてくださるのです。これも尊い助けです。
信仰の熱心を失って、教会から離れている方があります。「あの人は、信仰を捨ててしまったのだから、仕方ないですよ。」という声も聞きます。本当に仕方ないのだろうか。私は諦めずに祈りたいと思うのです。
「その方の唇に、御言葉を聴くことを求める祈りを備えてください。信仰の火を、もう一度熱くしてください。」
4人の人が、立ちはだかる群衆を目の当たりにしても諦めないで、屋根から友達をおろしたように、私も諦めずに祈り続けたいと思うのです。

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2006.06.24

わたしの主、わたしの神よ

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネによる福音書 / 20章 28節)

先日、上野の芸大美術館に、バルラハ展を見に行きました。19世紀から20世紀を生きたドイツの芸術家、エルンスト・バルラハの展示です。バルラハの晩年は、第二次世界大戦のまっただ中でした。ナチスから「頽廃芸術」として批判され、その作品はことごとく撤去されました。

バルラハの作品の一つ「再会(Wiedersehen)」も、「寝間着を着た2匹の猿」と評されました。しかし、この作品は、よみがえりの主イエスとトマスの再会の場面として、現在は紹介されています。主イエスとおぼしき人の手と足には、釘のあとかと思われる小さなくぼみがありました。その人に向かって、トマスが寄りかかっているのです。

この作品をまじまじと見ていて、はっと思ったことがあります。この作品の下敷きがヨハネによる福音書 第20章24節以下の記事ならば、トマスはこう言っていたはずです。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (25)

パルラハは、よみがえりの主イエスにあったトマスを彫像にしました。が、そのトマスは、主イエスの手と足に小さく作られたくぼみ、釘のあとには、目もくれていないのです。ただ、ひたすらに主イエスの顔を下から食い入るように見ています。目を見開いてみているのです。おそらく、この作品は、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」といった、その一瞬を表しているのではないでしょうか。

トマスにとって、甦りの主に出会ったことは、夢のことでも、絵空事でもなく、現実のことでした。よみがえりの主イエスに出会うことは、それほどに確実なことなのだと、バルラハに教えられた一日でした。

エルンスト・バルラハ展は、2006年7月17日まで、山梨県立美術館で行われています。

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2006.06.10

怒りで満ちる心

ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。(ルカによる福音書 / 6章 11節)

主イエスは、安息日に会堂で教えられていました。そこに、手の萎えた人がいました。同じ会堂の中にいた律法学者、ファリサイ派の人たちは、主イエスを訴える口実を探していたので、安息日の会堂で、主イエスが癒しを行われるかどうかを見張っていたのです。
彼らの心の内は、イエスというナザレ出身の男を訴えることしかありませんでした。手の萎えた人のことも、主の語られる教えも、受け入れる余地がなかったのです。
彼らの考えを抜かれた主イエスは、あえて手の萎えた人を人々の真ん中に立たせ、人々に問いました。

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(9)

安息日に許されていることは、当然、善を行うことであり、命を救うことです。善とは、神の御心を行うことであり、命を救うとは、神の御心のうちに生きることです。あらためて問われ、この当たり前の答を答えるものはありませんでした。それどころか、癒しを行われた主イエスに対して、彼らは怒り狂ったのです。
「怒り狂った」と訳されている言葉は、「怒りで満たされた」という意味です。しかも、この「怒り」は、神が怒られる時に用いる「怒り」とは別の言葉です。むしろ「無知」とも訳されている言葉です。
私達の罪の本質がここに明らかにされています。私達は、怒りで心を満たしてはなりません。むしろ、喜びで満たされるものです。そのためには、私達はこの無意味な怒りを拭い去る、捨て去る必要があるのです。
私達の心を満たしている無意味な怒りを、ご自身と共に十字架につけてしまわれたのです。この主を信じる時に、私達はもはや、無意味な怒りに心を満たされることはないのです。神様の喜びの中に生きることができるのではないでしょうか。

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2006.05.29

なぜ、身を隠すのか

彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記 / 3章 10節)

創世記第3章は、アダムとエバの失楽園の物語です。人間が犯した最初の罪。
私達は良く、こういう話を聞くと思います。「ここで、何が生けなかったのか。それは、アダムもエバも、自分のしたことを正直に神の前に謝罪するのではなく、責任転嫁をしたことだ。」ううん。そうとも言えますね。そこで、ちょっと考えてみましょう。
彼らが犯した罪は、神の戒めを破ったことが最初です。すなわち、園の中央にある善悪の知識の木からは実を取って食べてはならないと言われたいた。これを蛇の唆しによって破り食べてしまったのです。もちろん、そのような類の実ですから、食べたアダムもエバも、何が悪いことなのかはよく分かっていたはずです。では、悪いことを分かっていたのに、なぜ、神の御前でそれを告白することができなかったのでしょうか。
アダムは言っています。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。」
善悪を知るようになったために、アダムは神様の絶対的な正しさと、塵芥にすぎない人間との差をはっきりと知ることになりました。それは恐れに繋がりました。義の神の前で、どうして作られたものにすぎない人間が立つことができるのか。
この恐ろしさを回避するために、アダムは身を隠し、そして言い逃れるために言い訳をしたのです。自分の知恵、自分の力でどうにかして、この恐ろしさから逃れられないかと考えたのです。
私達も、罪の問題を考える時、しばしば、神の御前での絶望を考えることがあると思うのです。しかし、しかし、ここが大切です。神様は、アダムとエバから始まる人間の歴史に介入してくださり、救いの道を開かれているのです。そこを忘れてはなりません。
私達は、神様の義の前で、自らの罪をはっきりと知ることができます。しかし、罪にうちひしがれてしまうのではなく、しかも、怖れることなく、その義なる神様の御前にちゃんと出てひれ伏すことができるのです。なぜでしょうか。一人ではないからです。私達の救い主主イエスが、私たちのかたわらに立ち、取りなしてくださると信じるからです。私達は、自分の知恵に頼るような言い訳をしなくていいのです。

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