十戒を心に刻む
十戒と言えば、映画を思い浮かべる方も多いでしょう。
聖書で言えば、出エジプト記20章、そして、申命記にも記されている言葉です。
「十の戒め」と書くせいでしょうか。これを「守らなければいけないもの」と考えてしまうことが多いと思うのです。そのようにとらえると、十戒は「裁きの言葉」にしか成り得ません。
十戒はもとの言葉で言えば、「10の言葉」。そして、それは、神様が「こうあるように」と私たちに下さった言葉なのです。
確かに、その一つ一つを完全に守ろうとすれば、そこには完全には守り得ない人間の姿が浮き彫りにされます。だからこそ、私たちは、神様が、そのために私たちに所に御子、主イエス・キリストをお遣わしになったことを思います。主キリストが来て下さったからこそ、私たちは、この十戒-十の言葉を守ることの出来る者に変えられるのです。
時々、「旧約聖書を重んじるのは、ユダヤ教でしょ。キリスト教ではそういうことをしない」と言われる方もあります。これは誤解。十戒は、使徒信条、主の祈りと共に、「三要文」として、古くからキリスト教会では重んじてきた文章です。
宗教改革の時代から、改革者らの手によっていくつかの信仰問答書が著されましたが、そのどれもが三要文をきちんと取り上げています。特に注目すべきは、十戒を扱うときに、その一つ一つについて、「この言葉によって神様は何をお求めになっているか」という問を繰り返していることです。
私の通う教会では、礼拝式の最初に、十戒を唱えます。十の言葉を心に刻みつつ、礼拝に向かう心を整え、神様に向かって心を開いていくのです。十戒はまさに、恵の言葉として、私たちの心に刻むべき言葉なのです。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)









キリスト者は、日曜日に教会に行き、礼拝を守ります。
教会は、日曜日を「聖日」と呼んだり「主日」と呼んだりします。



最近のコメント