出エジプト記

2008.01.26

十戒を心に刻む

十戒と言えば、映画を思い浮かべる方も多いでしょう。

聖書で言えば、出エジプト記20章、そして、申命記にも記されている言葉です。

「十の戒め」と書くせいでしょうか。これを「守らなければいけないもの」と考えてしまうことが多いと思うのです。そのようにとらえると、十戒は「裁きの言葉」にしか成り得ません。

十戒はもとの言葉で言えば、「10の言葉」。そして、それは、神様が「こうあるように」と私たちに下さった言葉なのです。

確かに、その一つ一つを完全に守ろうとすれば、そこには完全には守り得ない人間の姿が浮き彫りにされます。だからこそ、私たちは、神様が、そのために私たちに所に御子、主イエス・キリストをお遣わしになったことを思います。主キリストが来て下さったからこそ、私たちは、この十戒-十の言葉を守ることの出来る者に変えられるのです。

時々、「旧約聖書を重んじるのは、ユダヤ教でしょ。キリスト教ではそういうことをしない」と言われる方もあります。これは誤解。十戒は、使徒信条、主の祈りと共に、「三要文」として、古くからキリスト教会では重んじてきた文章です。

宗教改革の時代から、改革者らの手によっていくつかの信仰問答書が著されましたが、そのどれもが三要文をきちんと取り上げています。特に注目すべきは、十戒を扱うときに、その一つ一つについて、「この言葉によって神様は何をお求めになっているか」という問を繰り返していることです。

私の通う教会では、礼拝式の最初に、十戒を唱えます。十の言葉を心に刻みつつ、礼拝に向かう心を整え、神様に向かって心を開いていくのです。十戒はまさに、恵の言葉として、私たちの心に刻むべき言葉なのです。

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2005.07.31

あなたの父母を敬え

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト記 / 20章 12節)
kobito_rosa.gif父と母を敬うこと、そんなことは誰でもが分かっていると思うのです。一般道徳においても言われていることです。
しかし、私たち信仰者は、このことを信仰の事柄として捕らえます。つまり、親子の関係も、神様のもとにある隣人の関係の中で捉えるのです。すると、何が私たちに求められるのでしょうか。
ハイデルベルク信仰問答では、次のように記しています。
問104 神様は第五戒において、何を求めておられますか。
答 わたしは、わたしの父、わたしの母、そして、わたしの上に立つすべての者に対して、一切の栄誉、愛、忠実を示すこと、そして、すべての良い教えと罰とを従順に受け入れ、また彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられるのです。なぜなら、神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられるからです。
この信仰問答の言葉の中で、特に注目したいのは、
「また彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられる」
ということです。 今、親子の関係で悩んでいる方は、「そんなこと…。」と思われるかもしれません。考えてみましょう。親も、子も、一つの人格を持った一人の人です。それぞれが神様から命を与えられた人間です。信仰問答の文言の中に、「神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられる」という言葉があるのは、親は子を一人に成熟した人に育てる義務があることを意味しています。しかし、親も、子も、神様に作られた被造物、罪深き人間に変わりないのです。ですから、お互いが、この神様によって生かされている存在であることを認めなければなりません。親が子を愛する以上に、子が親を愛する以上に、神様がこの一人の人をゆるし、愛して下さっていることを心にとめることが大切なのです。
もし、親に愛されていないと思っている方がいたら、子に愛されていないと思っている方がいたら、聞いて欲しいのです。その寂しいあなたをこそ、神様は愛されている。そして、あなたが憎んでいる親、子も、同じように神様は愛されているのだと。
親子の関係を、信仰の事柄として捉える時に、私たちは本当の親子の信頼を回復することが出来るのではないでしょうか。

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2005.07.24

安息日を聖別せよ

安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出エジプト記 / 20章 8節)
kobito_bloon.gifキリスト者は、日曜日に教会に行き、礼拝を守ります。 教会は、日曜日を「聖日」と呼んだり「主日」と呼んだりします。
「聖日」とは、天地創造におり、主なる神様が七日目にそのわざを終えて安息されたことに由来します。主なる神様が、七日目に全てのわざを終えられて、その日を祝福され聖別されたからです。
「主日」とは、主イエスキリストの復活されたことに由来します。そして、私たちは主の復活を思う時に、同時に主イエスの十字架のみ苦しみと十字架の死を思います。それが私たちの罪のためであり、私たちの罪も同じく主は十字架につけて滅ぼされたからです。
このように、計り知れない恵みのうちに、私たちは新しい命に生かされています。
主の日の礼拝に出ることは、その命にあずかることです。

そのことを思う時、私は主の日の礼拝に出席出来ることは、当たり前のこととして捕らえられなくなりました。それは、まさに神様の招きであり、恵みであるからです。
かつて、90才のご婦人が、主の日の礼拝に出席するために、その一週間を心がけて過ごしていると、聞いたことがあります。
日曜日も仕事のある青年が、心がけて、聖餐を祝う礼拝に有給休暇を取るようにしていたこともありました。
その一方で、「病気だから、礼拝に出られない」「仕事だから礼拝に出られない」と嘆く声も聞いています。礼拝に出席することを切望しながら、果たせない方々の心の内は思うにあまりあります。そのような方たちのために、教会の週報を持って訪問して下さる方たち、礼拝説教のテープを届けて下さる方たちのあることは、教会にとってなんと幸いなことかと思うのです。もちろん、牧師も長老を伴って訪問をしていますが、教会員の一人一人が自主的にそのような奉仕をしているのです。

そして、もう一方で、「礼拝に出席できないのは当たり前だ。仕事があるのだから。」と居直ってしまう人もあります。これは残念です。当たり前にせずに、是非、祈って欲しいのです。礼拝に出席できるようにと。

私たちは、心からこのことを日々の生活の中で問うていくことが求められていると思うのです。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。

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2005.07.04

わたしは主、あなたの神

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記 / 20章 3節)
kobito_lila.gifこのみ言葉を聞くと、様々な反応が返ってきます。その一つが、「私は、無神論者です。」でしょう。日本ばかりではありません。かつて聴いたBBCのラジオでも、アメリカのテレビでも、ドイツの雑誌でも、話題になりました。「無神論だ」という方たちが、実はいろいろなものを頼っていることが多くあると思います。
その一例。ある時、中高生のキャンプに行きました。初日の夜に皆で自己紹介をしました。普段はあまり話をしない他の学年の人たちとも話をするためです。ルールが一つありました。それは学校名を言わないことです。どのような学校に通っているかが、その子を評価することにはならないとの判断からでした。生徒たちの自己紹介は次のようでした。
「私は○○です。A型の牡羊座です。」
「僕は××です。B型の乙女座です。」
「私は◇◇です。O型の天秤座です。」
それがずっと続きました。全員が自己紹介を終わったところで牧師が尋ねました。何故、みんなは血液型や星座を言うのか。生徒たちは答えました。血液型や星座によって性格が決まっているからだと。牧師はさらに尋ねました。「本当にそうなの。」
しばらくの沈黙の後、一人の子が答えました。「当たらない場合もある。」
「当たることの方が多いの。」
「ううん。当たってない方が多いかもしれないけれど、B型はこういう性格だと言われると、そう思ってしまうんです。」
「そう、そこが問題なんだよ。」
そうなのです。私たちは一人一人が神様によって作られ、神様は、その私の全部を知っておられるのに、私たちは他のものによって自分というものを評価し価値づけようとするのです。中学生、高校生が、自己紹介の中で血液型や星座を用いる必要はないのです。私はこんな事に興味を持っている。あんな事が好きだ。将来はこんなものになってみたい。等々。それぞれがもっと豊かなものを持っているはずです。血液型や星座によって画一的に格付けされるものではないのです。神様が、私たちに与えて下さるものは、そんなに貧しいものではないのです。神を信じることの中で、この私がどんなに豊かな賜物を与えられているかを知るのではないでしょうか。

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2005.05.29

神の言葉

主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。(出エジプト記 / 4章 11節 )
 kobito_rosa.gifモーセは、エジプトに戻り、奴隷となっているイスラエルの人々を、神の約束の地へと導き出しなさい、という命令を神様から受けました。かつて、彼はエジプトの王妃に拾われ、王子の一人として過ごしていたのです。しかし、自分がヘブライ人であることを知り、奴隷となっている同胞を助けるつもりでエジプト人を殺してしまいました。そのことを見とがめられ、エジプトから逃げ、ミデアンの祭司、エトロのもとで、やっと安住の地を見いだしたところだったのです。
 モーセは、私のように口の重いものには、そのような大任は背負いきれない、と神様に訴えました。それに対する答が、今週のみ言葉です。
 神様ははっきりと言われているのです。人に口を与えたのも、聞く耳も、見える目も、全て神が与えたものであると。神の与えた口は、神様のみ言葉を語り、神を賛美する口です。耳は、神のみ言葉を聞き、悟る耳なのです。目は、神様の恵みのみ業を見る目です。 しかし、わたしたち人間は、それを何に使うのでしょうか。人を呪う口を神様はきけないようになさいます。人の噂にそばだてる耳を神様は聞こえないようにされます。人の悪い行いを楽しんでみる目を、神様は見えなくされます。
 その反対に、神様のみ言葉を語る口、悟る耳、み業を見る目は、どんな困難な中にあっても、閉じられることはありません。人間の努力では語り得ないと思われる中にあっても、神様はそのみ言葉を人の口を通して語られます。悟る耳は、神様の叱責の言葉さえもわたしたちに愛を持って悟る道を示します。どのような小さな喜びをも見逃さない目を、神様は備えて下さいます。
 最近、とても残念なのは、牧師たちは、そのような神様に託された仕事を、心からの服従を持ってなしているかと言うことです。説教が説教になっていないのです。正直なところ、教会員の受けばかりをねらった説教が多いのです。それでなければ、牧師の個人的な考えの演説会になってはいないでしょうか。
 説教者に与えられているのは「神の言葉」ではないでしょうか。だから、わたしたちは大胆に語ることが出来るのではないでしょうか、主のみ言葉の真実を。

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