足ることを知る
もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。(テモテへの手紙一 / 6章 6-7節)
テモテへの手紙では、しかし、単に欲の支配を知るぞける事を説いているのではありません。ここで中心に置かれているのは、「信仰」です。つまり、神の言葉への服従なのです。
最近、教会を訪ね、1ヶ月ほど礼拝を共にされた方が、「私の思っていた価値観とは違うから、この次から少し休みます。」と言われました。残念です。少なくとも、どのような価値観をお持ちだったのか、どう価値観が違ったのかを言われずに去られてしまいました。が、「価値観が違う」と言われたことは、主イエスの教えとその方の生きたかが違うと言うことがはっきりとしたことを意味しています。これは大切なことです。後は、そのどちらに従うかと言うことでしょう。そういう意味で、この方が再び教会に来られることを祈りつつ、御手に委ねることにしました。
さて、欲ではなく、神の御言葉に服従する、という時に私たちが直面する落とし穴は、「禁欲主義」です。あらゆる欲を退けると言うことに熱心になる。が、それは自分の満足を満たすためのものであって、これもまた形を変えた「欲」であるといえるでしょう。神の言葉に服従することは、禁欲主義ではなく、「神の言葉への服従」なのです。何が必要であり、何が足りないかを知る道なのです。
そこで、私たちは必要なもので満たされる時には、感謝を献げます。しかし、求めるものがある時には、熱心に祈り求めるのです。必要なものは必ず主なる神が与えてくださると確信しているからです。
そうなると、私たちの生活はどのように変わるでしょうか。常に必要なものを与えてくださいという祈りの生活になります。他人のものをむさぼること、欲を退ける生活になります。神の愛の下に、赦されたもの同士、執り成し合い助け合う生活になるのです。
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