マルコによる福音書

2006.09.13

風を叱るイエス

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコによる福音書/4章 39-40節) 

マルコによる福音書第4章35節から、奇跡の話が記されています。夜、ガリラヤ湖の対岸へ渡るために、主イエス一行は船を進めしまた。しかし、突然の突風に船は沈みそうになります。弟子たちは大あわてで水をかい出すのですが、船はまさに沈没寸前。ところが、イエス様は船の艫でグウグウと寝ておられる。
「イエス様、どうして、おきて助けてくださらないのですか。」
弟子たちは悲鳴を上げました。そこで今日の御言葉です。

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコによる福音書/4章 39-40節) 

イエス様は、弟子たちの信仰のなさをお叱りになりました。しかし、不思議です。彼らの命は危険にさらされていたはずです。船が沈んでしまったら、何もかもおしまいになってしまったはずです。それとも、イエス様の力を信じて、一緒に船の中で寝ていて好かったのでしょうか。そんなはずはない。イエス様はそれまでにも、病気で苦しんでいる人、汚れた霊にとりつかれた人を助けたではありませんか。その人たちも、イエス様に頼る以外に助かる道はないと信じてやって来たはずです。それなのに、なぜ、ここで弟子たちは叱られたのでしょう。

ここで「怖がるな」と訳されている言葉は、ただ怖がっているだけの状態を示す言葉です。弟子たちは臆病になっていたのです。イエス様がそばにおられるのに、しかも、そのイエス様は、安心しきって寝ておられたのに、弟子たちはあわてふためいたのです。

この言葉にはっとして、

弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(41)

今度の恐れは、神に対する恐れです。先ほどの恐れとは異なるのです。そして、「この方はどなたなのだろう」と問うた弟子たちの問は、この後ますます深められ、ついに、復活の主イエスに出会ったときに答を与えられるのです。

主イエスは、風と波をおしかりになったと聖書は記します。本来なら、臆病になり、あわてふためく弟子たちに対して、「黙れ、静まれ。」と言うところだったのかもしれません。しかし、主イエスはそのかわりにこういわれました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」なぜ、いたずらに恐れ、騒ぐのか。まだ信じないのか。私を信じ、なすべきことをするのだ、とイエス様はおっしゃりたかったのです。

私たちの生活も、弟子たちのように、心を騒がせ、あわてさせる事件が起きます。しかし、主イエスを信じている私たちは、それでもなお、自分に与えられたことを、たとえそれがほんの小さなことでも、心を込めて一所懸命にできるのではないでしょうか。私たちのかたわらにも、何にも動じないイエス様がおられる。だから、私たちは波にも、風にも驚くことなく、今やるべきことをできるのだと。

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2006.07.03

全ての人を主の前に

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。(マルコによる福音書 / 2章 4節)

ナザレのイエスという、すごい力を持ったお方がいる。悪霊を追い払い、病を癒やしてくださる。語られる教えは、すばらしい。
主イエスの評判を聞きつけた人々が、いつも主の周りを囲んでいました。この時も、主イエスの語られる話を聞こうと、大勢の人が戸口までもいっぱいでした。
そこに、中風の人を4人の男が運んできたのです。寝たきりで、自力では何もすることができなくなってしまった人を、主のもとに運んできた4人です。
「イエス様に会いたいんです。あけてください、通してください。」
しかし、身動きのできないほどの人だかり。4人は屋根に登るとそこの土をはがし、ちょうど主イエスの真上に、中風の人を床ごとおろしました。
この4人は、寝たきりになってしまった友達を主の御言葉に託すようにして、連れてきて、屋根から主の真ん前におろしたのです。
教会にもいろいろな方が来られます。小さい子供、年老いた方、体の不自由な方、健康な人。教会に来られる方たちと礼拝をまもる時に、いつもこの御言葉を思います。それは、なにか事情のある方を、特に心配りして招くというものではありません。この御言葉で大切なことは、一人の供を主イエスの御前に連れてきた4人です。一人の魂を救うために、主イエスの御言葉に全てを委ねて、運んできたことです。
教会にも小さな子供を連れた家族が来ます。子供はお父さん、お母さんが自分よりも大切な物を見ていることを気づいています。だからちょっぴり嫉妬して、少し声を大きくします。近くのベテランママが、その子を抱きかかえていいました。

今はね、神様の言葉を聞いているんだよ。神様の声は、よーくよーく聞かないと聞こえないの。ちょっとだけ、お声を小さくできるかな。」

小さく頷いた子は、お祈りの「アーメン」だけは大きな声で言いました。
年老いたお母様を連れてこられたご婦人がいます。脳梗塞のために少し体に麻痺があります。礼拝堂までの階段が上れるだろうか。半ば諦めていたそうです。でも、連れてきました。ちょうどそこに居合わせた仲間が、みんなで手を貸して励ましました。
毎週は来られないかもしれない。でも、信仰に導こう。祈りの課題をみんなが持ちました。
高齢のために、礼拝に来られなくなった方の週報棚はいつも空っぽです。同じ高齢者用のマンションに住んでいる方が、毎週届けてくださるのです。これも尊い助けです。
信仰の熱心を失って、教会から離れている方があります。「あの人は、信仰を捨ててしまったのだから、仕方ないですよ。」という声も聞きます。本当に仕方ないのだろうか。私は諦めずに祈りたいと思うのです。
「その方の唇に、御言葉を聴くことを求める祈りを備えてください。信仰の火を、もう一度熱くしてください。」
4人の人が、立ちはだかる群衆を目の当たりにしても諦めないで、屋根から友達をおろしたように、私も諦めずに祈り続けたいと思うのです。

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